――真夏日の続く8月初頭。
 午前とはいえ11時を過ぎれば、遮光カーテン越しでさえキツイ日差しの気配が伝わってくる。
 フリフリレースの新婚用ベッドで眠っていた男も、そろそろ目覚めの時間のようだ。
 目を開けるより前に無意識に動き始めた腕が、自分専用の抱き枕を探す。だが、ここ数日、目覚めた時にそれがあったためしがない。
 原因は、自分が通常人とは違うリズムで生活しているからなのだが、そのことに思い当たるほど今の男の精神はまっとうではない。
 ハッキリ言って人間以下。
 犬猫より悪い。
 まあ、強いて言えばハムスター程度という大ボケ状態の男は、ちょっと不満げに瞼を開けた。
 周りを見回しても、やっぱりない。
 それは、いつも自分の腕の中になければいけないものなのに、どうして勝手に動き出してしまうんだろう?
 と、それこそひどく自分勝手に感じていた。

 この俺様男、名を有栖川譲という。

 演劇界の鬼才と呼ばれる有栖川良桂の三男坊で、パントマイムの名手でもあり、妹の玲とともに『動の玲、静の譲』の名を戴き、演劇通を唸らせている若手舞台俳優である。
 こうしている今も、4日前に父親に請われて1日だけの代役を務めたパッヘルベルのカノン役に対する絶賛の嵐が、俳優仲間や劇評家達の間に湧き上がっているのだが。
 そんなこと、譲にとってはどうでもよかった。
 唯一気になるのは、抱き枕がないことだ。
 目覚めた時にあれが腕の中にないと、なんとなく気分が塞ぐ。
 1日が始まらない。
 起きる気がしない。
 だから、またグッタリとベッドに仰臥してしまう。

 昨日は、あれがわざわざ風呂場までやってきて、気持ちいいことをしてくれたから、とってもスッキリしてよく眠れた。
 それに、あれがいると食事の心配もしなくていい。
 時々自分でも腹が減っていることさえ忘れてしまって、動けなくなってから気づいたりする。
 でも、あれと暮らし始めてからは、いつでも食べたい時に食べたいものが出てくる。それはとてもいいことだ。
 おかげで、たった1日の代役であれ『劇団アリス』の大舞台に立ったはずなのに、いつもよりずっと回復が早い。
 やっぱり、あれのおかげだ。
 あれ……は、なんて名前だっけ?

 そうだ、多紀だ。

 上の名前は…、思い出せない。
 まだ、左脳が活動していないらしい。
 言葉は面倒臭い。ちゃんと左脳が活動してくれないと、すんなり出てきてくれない。
 それは、2つ年下の妹の玲から、それこそ何百回となく言われ続けてきたことだから、覚えている。

『お前の左脳は、たぶん活動するまでに時間がかかるんだ。だから言葉を巧く操れないんだよ』

 左脳の領域である言葉を操る天才であり、さらに、右脳から発するイマジネーションにも恵まれ、脚本を書き、自ら演じ、それを体現する鍛えられた身体をもった玲は、見事なバランス感覚でもって理想とする舞台を創り上げている。
 その玲が、二言目にはこう言う。
 女は男より左右の脳を繋ぐ脳梁が太いのだと。
 だから、左右の脳の連携が上手くいって、バランスの取れた考え方ができる。
 しかるに、男には突出した天才は多いものの、一方の脳をフル活動させるタイプゆえに、欠けている部分も非常に多い。
 あまたの名曲を後世に残したモーツァルトも、社会性が欠如していたために若死にした。宮廷内で如才なく立ち回ることさえできれば、どれほどの作品が残せたことか。
 才能はあっても、生きる術を知らない。右脳型天才の末路は惨めなものだ。
 と――…。
 つまり、遠回しに譲のことを、一般常識も知らぬろくでなしと言っているのだ。

 でも、譲の右脳は、ちゃんと多紀の顔や、表情や、仕草や、料理の味や、抱き心地を覚えている。
 目をつむれば、そこに3D映像くらいのリアリティでもって、映像が浮かぶのに。
 声だってしっかり響いてくるのに、言ってることは難解すぎて、よく理解できない。
 声が聞こえるのに言葉の意味がわからないってのが、自分の変なところらしい。
 子供の頃からずっと変だ変だとバカにされてきたから、今さらそのことでキズついたりはしないけど……。

 でも、多紀も変だ。
 その変な自分を、愛していると言う。
 上げ膳据え膳させてくれると言う。
 甘やかしてくれる。
 抱き枕になってくれる。
 美味しい物を食べさせてくれる。
 いっしょに風呂に入って、気持ちいいこともしてくれた。
 思い出すと、下半身が疼く。
 これは朝立ちって状態とはちょっと違う。むしろ欲情に近い。
 また、してくれるだろうか?
 男女ではないから、それほど頻繁にはしないのだろうか?
 男同士のSEXについてはよくわからない。まったく経験がないわけじゃないけど、一方的に乗っかられただけで、それほど楽しいものじゃなかった。
 あれなら以前付き合っていた女達と変わらない。
 パターンが同じでつまらない。
 一度で飽きる。
正直にそう告げると、たいてい相手は怒る。
『あんたって、サイテー!』
 と、ひっぱたかれて終わってしまう。
 でも、ウソはつけない。
 本当のことを言うのさえ面倒なのに、ウソなんか考えるのはもっと面倒臭い。

 恋する相手だと同じパターンの繰り返しでも飽きないと聞いた。
 残念ながら、女と付き合ったことはあるが、恋愛経験と呼べるほどのものではないから、その楽しさを味わったことはない。
 でも、多紀は、何度抱き枕にしても飽きない。
 感触も匂いも変わらないのに、また抱きたいと思う。
 だったら、SEXも飽きないだろうか?
 今ままでの誰よりも、気持ちいいだろうか?

 そんなことを漠然と思いながら、再びトロトロと眠りに入ろうとしていた時、耳が何かを聞きつけた。
 誰かが部屋に近づいてきた。
 あの足音は玲だ。
 譲に、あれこれと吹き込んだ、2つ年下の妹。
 だが、本人は男装の麗人とか豪語して、3歳の頃から男のカッコウをしている。

「譲、起きてるか?」
 と、いきなり寝室のドアを開ける。

 譲にとって、玲は警戒すべき者だ。
 その気配を感じ取ればすぐに目覚めることは、玲も知ってるから、いちいちノックなどしない。
 目の端で、今日も遺憾なく美少年ぶりを発揮してる玲の姿を捉える。
 とたんにスッと股間の疼きが消えた。
 譲にとって、玲の声や姿は鎮静作用を果たしてくれる。欲情した時でも玲の顔を思い出すとすぐに萎える。
 ある意味、便利な女だ。
 本人には絶対に言わないけど。

「ちょといいか? 若宮さんのことなんですが」
 若宮さん…?
 そうだ、それが上の名前だ。若宮多紀だ。
 それなら聞かないわけにはいかないと、おっくうそうに譲は上体を起こす。
「実は、昼食に粗挽きソーセージが出ましてね」
 脈絡もなく玲が言う。
 もっとも譲相手に、脈絡だの文法だの気にしたところで、猫に小判とゆーヤツだ。
(粗挽きソーセージ…、それは食いたい)
 と、どうせこの程度の反応だし。
 だが、譲にとってはけっこう切実な問題だ。
 やっぱり腹が減っているらしい。
 何故、多紀は、こんな時間になっても、食事を持ってきてくれないんだろう?
 起きていかなければならないんだろうか?
 いっしょにベッドで食べる方が楽しいのに。
 でも、食べないと、身体がもたないから起きなきゃいけない。
 それはちょっと面倒だ。

「おかげで、昨日、お前が風呂場で若宮さんに何をしたか、見当がついてしまったよ」
 と、玲が、まだ何か言っている。
「若宮さん、食事中に私の前でソーセージを嘗めたんだ。お前のナニに見立てて」
「……………………」
 譲は、しばし考える。
 どうしてソーセージなんか嘗めるんだろう?
 そんなに嘗めたいなら、俺のを嘗めればいいのに。
 その方が、俺も気持ちがいいのにと。
「そんなことをするくらいなら、自分のを嘗めればいいとか思ってないかい?」
 玲が、譲の思考を先読みして口にする。
 他の人間は譲の行動をわからないと言うのに、玲だけは見事なくらい言い当ててしまう。
「犬猫程度の脳味噌が考えることくらい、わからいでか」
 と、また何も訊いてないのに、勝手に答えてくる。
 バカにされているのはわかるが、便利だから放っておく。
 世界中の人間が、みんな玲のように聡ければ、いちいち説明しなくてもすむのに。
 と、何気に思ったものの。
(世界中の人間が、玲…?)
 やっぱり、それはそれでイヤだと考え直す。
 玲は人の考えをちゃんと読みとれるくせに、他人にはウソばかり言うから嫌いだ。
 ウソと真実は、言葉にすると見分けがつかない。
 少なくとも譲には……。

「で、若宮さんの件だけど、いくらなんでも、いきなりフェラはまずいだろう」
「………………」
 俺のはマズイのか?
 と、しばし考えたが、どうやら意味が違うと気づいた時には、玲が訂正を入れていた。
「美味いマズイのマズイじゃないぞ。即物的にそういうマネをさせるのはよくないと言ってるんだ。即物的の意味は、欲情したからといっていきなり射精という破廉恥な行為に相手を巻き込むことだ」
「……ダメか?」
 ようやく譲は今日初めての言葉を口にした。
「おや、しばらくぶりだな、直接声を聞くのは」
 玲が、ちょっと意外な顔をした。
 大抵は一方的に玲が話して、譲は黙ってそれを聞くだけというのが、二人の会話のパターンだ。
 それを会話と言えるのであればだが。

「ダメか…と、いきなり言葉になるか」
 と、玲が、意味ありげに笑う。
「珍しいこともあったものだ。つまり若宮さんにダメ出しされると困るってわけだ。身体が回復してきた今、そろそろ睡眠と食欲以外のもう一つの欲望が目覚めてきたってことかな? 一張前に」
「……………………」
 玲のしゃべり方は、他の誰より難解だ。
 だから、たいてい一度聞いただけではわからない。
 だが、黙っていれば、そのうち幼稚園児相手に話すほどに噛み砕いて説明してくれる。
「つまり、散々眠って、食べて、体力が戻ってきたから、そろそろ身体を動かしたくなってきたってことだろう? どうやら性欲も出てきたらしい。若宮さんを見てると、ついついムラムラと抱きたい気分になるんじゃないのか?」
 まったく妙な女だ。
 こんなにわかりやすく言えるのなら、どうして最初からそう言わないんだろう。
「だが、それは、ちょっと待った方がいい。ああ見えても、若宮さんはとても乙女チックな人だから」
「……………………」
 乙女……?
 譲には、多紀は男にしか見えない。
 だが、多紀自身も男が好きだと言っている。
 良桂の知り合いにはゲイカップルも多い。どこからどう見ても男なのに、女装したり女言葉を使う者もいる。
 多紀もその仲間だということだろうか?
 二度も『愛してる』と告白されたし。
 料理をするのが好きで、譲の面倒を見るのが好きで、抱き締めてやると頬を染める。
 あれは確かに女の反応だ。

「同性愛者と言っても、その指向は様々だ。若宮さんは身体は男でも心は乙女の純情タイプ。それも、昨今お目にかかれないほど古風で一途ときてる。だから、お前みたいな社会生活不適格者にも、ひたすら尽くすたけで満足してるわけだ」
「…………」
 満足……してるんだろうか?
 それにしては、いつも怒られてばかりいるような気がする。
 てゆーか、譲相手に怒らない人間の方が珍しい。だから、怒鳴られることには慣れているし、そのことを深く考えたこともない。
 そういう人間は、いずれ去っていってしまうから。
 ――でも。
 と、譲は、まだよく動かない左脳で考える。
 多紀が怒るのはイヤだ。
 怒鳴っているより、笑っている方がいい。
 それに、多紀がどこかにいってしまうのも困る。
 コックも抱き枕も必要だけど、生活が楽になるからという理由だけでなく、何か困る。
 多紀は、そばにいなきゃダメだ。
 それには、怒らせないようにしないといけない。
 でも、どうやって?

「若宮さんに逃げられたくないなら、少しは頭を振り絞って、彼の望みをかなえることを考えるべきじゃないか?」
 玲は、再び譲の気持ちを読み取ったかのように、忠告してくる。
「…………望み…?」
「乙女の望みといったら、もちろん新婚初夜だろう」
「…………」
「だから、お前の下半身が妙な気をおこしても、いきなり押し倒したり咥えさせたり、突っ込んだりなんて、即物的行為は慎めと言うんだ」
「…………?」
「勃たせるなってことだ」
「…………」
「おあずけだ」
「…………」
「我慢しろ」
「…………」
 ムッと、譲が口をへの字に曲げる。
 せっかく気持ちがよかったのに。
 多紀に嘗めてもらうのも触ってもらうのもよかったけど、一番よかったのは、その時の多紀の顔だった。
 あれはいい。
 あの顔がまた見たい。
 でも、怒らせるのはイヤだ。
 きっと、今までのように逃げてしまう。
 だったら我慢する方がマシだ――…。

 それは意外と簡単だ。
「とにかく、若宮さんのゲロ甘な夢を壊さないように、お前の忍耐力に期待するぞ」
 と、何が楽しいのか、ほくそ笑みながら出ていく女の顔と声を思い出せばいいのだから。

       ◆◆◆

 それから10日間、譲は玲の言葉に従って、ひたすらおとなしくしていた。
 多紀の夢とやらを、譲なりに考えた結果だ。
 結婚式は、どうしたって良桂の8月公演『アマデウス変容』が千秋楽を迎えてからだ。
 つまり今月いっぱいはおあずけってことで。
 それくらいは我慢できる自信はあった。
 あったのだが……。
 一つ、予想しない事態がおきた。
 若宮多紀、25歳、一応母親公認の婚約者が、ブランチを食べてる譲の目前で、テーブルの上に頬杖ついて、何か言いたげなしかめっ面でジイッと譲を睨んでいるのだ。

(何かしたかなぁ…?)
 玲に忠告されてから、多紀の乙女心をキズつけるようなマネはいっさいしていない。
 いや、していないつもりだ。
 たぶん、していないだろう。
 なのに、多紀の機嫌は悪くなっていく一方だ。
 やはり玲の言ったように、即物的行為がいけなかったのか?
 ロマンを求める多紀に、いきなりあんなモノを咥えさせたのは、やり過ぎだったのだろうか?
 他に理由が思いつかない。
 と、譲は譲なりに考えてはいるのだが、そこは完璧な右脳型人間だから論理的思考というのは得意じゃない。
 気がつくと頭は空になっていて、ついでに目の前の皿も空になっていた。

(あれ、いつの間に食ったっけ…?)
 ボーッと皿を見ていても、お代わりが出てくる気配がない。
 視線を上げて、ようやく多紀がいないことに気がついた。代わりにいたのは玲だった。
「いつの間に現れたんだろうって顔だ」
 と、相変わらず玲は、譲が何を言わなくても、ちゃんと顔色を読んでしまう。
 誰からも無表情すぎて気持ちが見えないと言われるのに、どうして玲にはわかるのだろう?
 なんて疑問は、譲は決して抱かない。
 玲にどう思われようと譲には関係ないし、余計なことを言わずにすむ分、楽だから。
 それよりも、多紀はどこへ行ったのか?
 と、あたりを見回す。
「若宮さんは、さっき携帯で呼び出されていきました」
「…………」
「逢い引きかもしれないよ」
 玲は、思わせぶりにニッと笑う。
「……って言ってやったのに、ちっとも反応しない。いったんトリップするとマジで何も聞こえなくなるんだから見事なもんだ。私と若宮さんが何を話していたかも耳に入ってなかったでしょう?」
「…………」
 それどころか、玲がいつダイニングに入ってきたのかも、いつ多紀が出ていったのかも気がつかなかったのだ。

(やっぱり、考え事ってのは難しい)
 と、一応、思うだけは思う。
 それだけに集中しようとすると、いつの間にか頭が真っ白になってしまう。
(何故できないんだろう?)
 だが、いくら考えたところで、譲にその謎解きは無理だ。
 ようは考えるという行為そのものがイヤで、トリップすることで逃避してしまうのだが、むろん当人にそんな自覚はない。
 できない人間に理解しろと言っても、無駄なのだ。

 人それぞれ能力というものがある。
 ピアノを弾ける人間、100メートルを10秒で走れる人間、大食い選手権で優勝できる人間。
 譲には、見たものを瞬時に記憶し体現するという神から与えられた特殊な才能があるが、その分、他人と言葉を交わし、当たり前の付き合いをするという能力が決定的に欠けている。
 だが、有栖川の家族は、譲ができないことに期待はしない。
 できるところを伸ばし、できない部分は誰かが補う。
 それが有栖川家の信条だ。
 玲など、そのためにこそ多紀のような人間が必要なのだと、傲岸に思っているくらいだ。
 この社会性皆無の男に、脇目も振らず演劇の道を歩ませるために。
 妹としてではなく、一演劇人として、それほど譲の才能を認めてやっているのだ。

「どうやら私の忠告は忘れてないようだな」
 だから、やはりここは多紀にご機嫌を直してもらうためにも一計を授けてやろうと、玲は少々のご親切心とたっぷりの好奇心でもって、よけいなお世話でしかない忠告をし始めた。
「でも、何もしなさすぎってのもよくないぞ」
 そんな優しい心根などあるはずはないのに。
「言ったと思うが、あの人は乙女だ。最終的には初夜でお前と結ばれることを願ってる。でも、考えてみろ、いきなりお前の一物を受け入れられると思うか?」
 むろん、譲がそんなことを真剣に考えるわけがないと知ってて、訊いているのだ。
「お前の過去の女達は悦んだかもしれないが、若宮さんは男だ。つまり結合する部分は挿入するための器官じゃない。お前もゲイの一人や二人相手にしたことがあるだろう? だったら知ってるはずだ。男のアソコは徐々に慣らしていかなきゃいけないものだ」
「…………」
「もっとも、男同士の場合、絶対挿入しなきゃいけないってものでもない。ただ、若宮さんは抱かれたい願望が強いから、最後までいかないと納得しないだろう」
「…………」
「つまり、お前はともかく、夢の初夜を目指すなら、若宮さんの身体の方は少しずつ開発しておいてやらないとダメってことだ」
「……………………」
 そして譲は、ちょっとだけ真剣にそのことを考えた。
 確かに、あんなところに入れるのだから、それはけっこう負担なような気がする。
 初夜で痛い思いをさせられると、多紀はまた怒るかもしれない。
 それは困る。
 とっても困る。
 だったら、少しずつ慣れてもらわないと。

「……いいのか、やっても?」
 玲はウソ八百並べ立てる天才だってことは譲だってわかっているが、今は他に訊く相手がいない。
「そりゃあ、あの人は王子様に憧れる乙女だから。理想を壊さないような迫り方ならいいんじゃないか。むろん、本番は新婚初夜に取っておくとしてだ。それから、決して自分の欲求を優先するんじゃないぞ。あくまで若宮さんの身体を開発するためなんだから」
「……………………」
 でも、多紀のためであろうと、それはけっこう譲自身も楽しめるような気がする。
(あの顔が見れる……)
 火照った身体を恥ずかしがりながらも、うっとりと目を潤ませて、快感に溺れていく時の、あの顔。
 決して、行為自体がイヤなはずはない。
 キスも抱き合うのも、むしろ好きそうに見える。
 だったら、やっぱり不機嫌の理由は咥えさせたことか?
 実は、あの時のことは疲れすぎていてよく覚えていないのだ。
 ただ、とても気持ちよかったことと、多紀の色っぽい表情はしっかり頭に焼きついている。
 あの顔が見たい!

「……ってことで、そのへんのこと忘れずに」
 突然、玲が、わざとらしい大声でしゃべり出した。
「でも、試すなら早いほうがいいぞ。できれば今すぐにでも」
 横目で誰かを見ながら、声高に。
 その視線を追うと、リビングの入り口に、新聞を手に持った多紀が立っているのが見えた。
 とたんに、股間がズックンと疼いてしまった。
(イカンイカン〜☆)
 慌てて視線を逸らせ、玲の顔を見る。
(あ…、冷めた……)
 まったく便利な女だ。
 この調子なら、多紀に触れても大丈夫だ、きっと。

「玲っ…! お…お前っ、譲に何を言ったっ…1?」
 多紀が、声を荒げて玲に何か言っている。
 でも、譲には玲の話題など関係ない。
 ダイニングを出ていく玲が多紀に何か話しかけているが、それさえ目に入ってない。
 今は他に考えることがある。
 数少ない男相手の経験と、ゲイカップルから聞いた話を思い出さないといけない。
 多紀の望む最高の初夜を迎えるために、その身体をキズつけずに開発する方法を。
 立ち上がり、多紀の方へと歩いていく。

「……あの女〜!」
 玲に何を言われたのか知らないが、多紀が拳を握りながら、怒りに燃えた顔を上げた。
 瞬間、二人の視線が絡む。
「うわっ〜☆」
 間近に譲が迫っているのに気づいて、多紀が頓狂な声を上げる。
 その顔から、怒りの色が消えていく。
「……譲……」
 戸惑ったように視線をさまよわせる多紀は、可愛い。

 譲は、この子ウサギのような男をどうやって料理しようかと、今度こそ真剣に考えていた。

         END