その夜、久住弘樹はメチャクチャご機嫌斜めだった。
愛する恋人で同棲相手でもある南部芳と、一人息子の公平とすごす夕餉の席、今夜はようやく決まった夏休みのプランを報告して喜ばせてやろうと思っていたのに。
またまた、あいつが割り込んできたのだ。
芳の弟、南部晶が!
芳とは一卵性の双子だけあって、姿形だけはそっくりさんだけど、性格は天と地ほども違う我が儘もんの晶が。
それも例のごとく、6つ年下の同性の恋人、深見大地と痴話喧嘩をしたって理由でだ。
久住にしたって、真性ゲイと開き直ってはいても、過去に4度の失恋を経験し、同性愛者の悲哀をイヤと言うほど味わってきた晶の不安は理解できなくもない。
さらに大地は、Jリーガーを目指す、質実剛健、不言実行、真実一路の健全すぎるほど健全なスポーツマンだ。
夢を目指すためには、同性の恋人などリスクにしかならない。
嗜好もいたってノーマルだし、女にもモテる。
今は晶の美貌と、あまりによすぎるSEXに目が眩んでいても、いずれは女の方がいいと気づくんじゃないか?
また捨てられるんじゃないか?
と、不安に駆られ、ついつい思いもよらぬ言葉をぶつけてしまう気持ちもわからなくはない。
が、だからといって、そのたびに芳に慰めてもらおうと、魂胆見え見えの泣きべそ顔で転がり込んでくる晶を歓迎できるかといったら、それは話が別だ。
「くそぅ〜、せっかくの楽しい家族の時間を邪魔しやがってー」
と、一人ベッドで毒づく久住は、イライラと時計を見ながら、芳が現れるのを今や遅しと待っていた。
時計の針は、すでに夜中の0時を回っている。
超ブラコンの芳は、とことん晶のくだらないグチに付き合ってやってしまうから、結局いつもベッドに入る時間が遅れてしまう。
もちろん寝るためではない。楽しい楽しいHをするためだ。
芳と久住は同じ職場に勤めている。同僚の中には二人の関係を怪しんでいる者もいる。遅刻寸前に二人いっしょに寝ぼけ眼で会社に飛び込むなんて、疑惑を増長させるようなマネはできない。一人息子の公平はまだ7歳。先は長いのだから。
つまり、睡眠時間を削れない以上、晶に割かれた分だけHの時間が少なくなるわけだ。
(あのクソガキ晶がぁ〜! 狙いはわかってるぞ。恋人とケンカするたびにウチに転がり込んでくるのは、俺と芳の楽しみを邪魔するのが目的なんだ。俺達だけ幸せなのが許せないんだ)
と、憤慨しまくる久住だが、晶をガキ呼ばわりできるほど大人の意見だろうか?
その頃、散々飲んで騒いでクダ巻いて、ようやく少し頭の冷えてきた晶は、今夜は泊まっていけとの芳の言葉に一も二もなく頷いて、洗面所で酔い醒ましに顔を洗っていた。
「やっぱ、久住さんの邪魔してやると気分がスッとするな〜」
などと25歳にもなって、兄の恋人に八つ当たりしてる晶も、久住と目クソ鼻クソだろうってくらい大人げないヤツだった。
そこへ、軽やかなノックの音とともに、芳が着替えを持って現れた。
「入るよ。パジャマ持ってきたから」
「あー、どーも」
「風呂から上がったら、ちゃんと着てくれよ」
「ナニそれぇ〜?」
「お前、一度酔った勢いで、上だけ着て公平のベッドに潜り込んだことがあったじゃないか」
晶は普段、パジャマの上しか着ない。
ようは、いつでもすぐにHに雪崩れ込めるようにとの準備なのだが、さすがに7歳の公平のベッドに潜り込むには少々教育上よくないカッコウかもしれない。
「えー? でも、あの朝起きた時、公平君、喜んでたぜ。晶さんの足ってキレイ〜って」
「頼むから、ウチの息子を誘惑しないでくれ。ただでさえ父親が隠すってことを知らないせいで、妙な知識ばかり増やしてるんだから」
「ハイハイ。ちゃんと着て寝ればいいんだろ。でも、悪いねー、いつも借りちゃって」
「いいよ。どうせそれはお前専用だし」
「あー、そうなの?」
「久住がイヤがるんだ。一度お前の着た物だと」
「あの人、俺をバイ菌か何かと思ってない〜?」
ムーッと晶は、タコさんになって口を突き出す。
そんな顔さえ可愛いと、ブラコンの芳はついつい見惚れてしまう。
同じ顔なのに、妙な兄弟だ。
「つまり、兄貴の匂い以外の物はイヤなわけねー」
「変なヤツだよな。ちゃんと洗濯してるのにね」
「気持ちはわかる。Hに雪崩れ込む時に、俺が着たパジャマだなんて思い出したくないってことだろう」
「う…☆」
あまりにストレートな晶の物言いに、クールが売りの芳の顔がパッと羞恥の色に染まる。
(あら、可愛いじゃない〜♪)
って、晶はちょっと面白がってしまった。
「ねーねー、前から気になってたんだけどさー。やっぱ、迫るのは久住さんの方〜?」
「訊くかー、そーゆーこと?」
「いやぁ、後学のためにさ。俺、同棲の経験はないから、毎晩いっしょに寝てるってどんな感じかなーと思って。飽きたりしない?」
「俺は…、べつにSEXしなきゃいけないとは思ってないけど。久住は今のところ、飽きる様子はないみたいだ」
「あの人、鬼畜っぽそうだもんねー」
鬼畜っぽいのではなく、ハッキリと鬼畜なのだが、
「さあ、どうかな?」
と、首を捻る芳は、なにせ男は久住しか知らないから、いまいち判断がつきかねているのだ。
「そっかー。兄貴、久住さんだけだもんなー。俺んとことは逆だよな。でもさー、大地のヤツ、ソープに行ったことくらいしかないとか言ってるけど、その分、妙なプレイに走りそうでさ」
「妙なプレイって…?」
「なんか、学校でやるの好きみたい。教師を押し倒す生徒ってのが」
「それ、プレイじゃなくて、まんまじゃないか。お前は事実教師だし、大地は教え子だったんだから」
「だって、もう卒業しちゃってるじゃん。なのに、時々制服着て迫ってくるんだぜ。それってコスプレじゃん。1歩間違えればフェチだぜ。ただの変態だよー」
「え…?」」
と、芳は驚きに目を見開いた。
(何…? 制服プレイって、やっぱ変態だったわけ〜?)
実は、制服プレイは久住の十八番だ。
警備員やベルボーイに扮した久住に、弄ばれたこともある。
だが、晶のめいっぱい不快そうな顔を見ていると、やっぱりまともなことじゃないらしいと、ちょっと冷や汗タラリの芳。
「それは、高校生気分が抜けてないってだけじゃないか?」
「かなー? でも、最近はHくさいセリフばっか覚えちゃってさ。オナって見せろとか言われた時には、殴ったろかと思ったぜー。年下のくせに生意気ったらないじゃんか」
「そっ……!」
と、芳は言葉に詰まった。
(それって、SEXの常套句じゃなかったのか? 久住はしょっちゅう言ってくるぞ〜☆)
どうやら自分と久住のSEXが、かなり常識とはかけ離れてるんじゃないかと思い始めていた芳に、晶は決定的な言葉をぶつけてきた。
「あげくに、妙な道具とか使おうとしたり。冗談だけど、マジック突っ込んでやろうかとか言いやがったこともあってー。そん時は遠慮なくぶっ飛ばしてやったけどー」
「………………」
もはや芳に言葉はない。
(マジック…、突っ込まれた。会社の会議室で…。妙なお道具もたくさん使われてる……)
それって、やっぱり普通じゃなかったわけね……。
変だなーと思うたびに、久住が無修正のホモビデオを見せながら、
『ね、男同士のSEXは男女のより激しいんですよ』
なんてゆーから、変だとは思いつつも不承不承納得していたのだが。
(やっぱりウソだったんじゃないかー、あの野郎ぉぉぉ〜!)
って、今まで気がつかないのがバカだってー。
だが、晶は次から次へと爆弾発言をぶつけてくる。
「俺、自分から欲しがるのは好きだけどー。年下に強要されるのだけは我慢できねーんだ!」
(久住も…同学年だけど、一応年下なんだよな…)
「年下にイニシアティブを取られたSEXなんて、もー、オゲゲ〜って感じだよね」
(オゲゲ〜より、あっふんって感じだけど……)
「プライド高い扶桑の人間をバカにするんじゃないってねー」
(ふ…扶桑のプライドを穢したことになるのか〜?)
敬愛する母親の実家の名まで出されてしまって、もう芳は心臓バックンバックンだ。
「そっか…、はは、そんなことをねー」
と、乾いた笑いを響かせて、必死に誤魔化しに入る。
「誰がさせるかってんだよなー。外では清廉潔白の爽やかスポーツマンのフリして、俺には変態行為を要求するなんてサイテーだよなー。俺はゲイだしSEXも好きだけど、感性はノーマルなんだぜ。もー許せるかっての。そう思うだろ、兄貴だって?」
と、詰め寄られ、芳はゴクリと息を呑んだ。
そのノーマルじゃないことを、芳は全部経験してしまっている。
たぶん今夜だって、晶に邪魔をされた分だけ怒り狂った久住が、あれやこれやお仕置き道具を揃えて待っていることだろう。
でも、可愛い晶に変態と罵られたくない。
嫌われたくない。
「ま…まったくその通りだ」
と、頷く以外何ができよう。
◆◆◆
「今夜はヤダ!」
久住の待つベッドに潜り込んだ芳は、開口一番宣言した。
「何がヤです。SEXは夫婦円満の必須アイテムですよ」
「ノーマルなSEXはだろ。お前のは変態じゃないか〜」
「チッ〜☆ 晶さんに何か言われましたね」
だからイヤなんだあのガキは〜と腹の中で毒づきながらも、久住は必死に言い訳を探す。
せっかくの楽しみを、やめられるか。
何がいいって、妙なことを強要してやった時の恥じらいぶりがサイコーだったらない。
なまじプライドが高い分、羞恥も並みのそれではないのだろう。行為のたびに、処女のような初々しい反応を見せてくれる。
(バージンの恥じらいと、娼婦の身体を持ち合わせてるなんて、こんな虐めがいのある人が他にいるか!)
と、外道なことを考えている男に、ホントに愛があるんだろうか?
「あのねー、芳。晶さんは未成年の教え子に手を出したんですよ。下手すりゃ犯罪ですよ。それに比べて俺達はれっきとした社会人。いい大人が愛し合うためにどんなプレイを楽しんだって、他人に文句を言われる筋合いなんかないでしょう」
自分の腕枕に芳の身体を引き寄せながら、もう一方の手をさりげなく胸元に回す。
パジャマの上から小さな突起を探っている指先に、芳は不審たっぷりな視線を向ける。
「それは、お互い納得ずくで楽しんでればだろ」
「楽しんでるでしょう。あなた、いつもいい声を出してますよ」
「そ…それは……」
確かにいつも途中からは、羞恥すら吹っ飛んでしまうほど、身も世もなく感じさせられてしまうけど。
「お互いに感じてるなら何をしたっていいんですよ。子供じゃないんですから」
悩ましいバリトンで耳元に囁かれると、そこは惚れた男だから、少々の変態プレイぐらい許してもいいかと思ってしまう。
(べつに、誰に迷惑かけてるわけじゃないしな〜)
このお人好しぶりに、久住はとことんつけ込んでいるのだが。
「でも、今夜はヤダぞ。晶が公平の部屋にいるんだから」
「聞こえませんよ」
「聞こえるってー。晶の気持ちも考えてやれよ。大地とケンカして寂しがってるのに、イチャイチャなんてしてられるか」
「あなた、晶さんと俺と、どっちが大事なんですか?」
「お前、それって、晶と同じ思考回路だぞ」
「誰が誰と同じですってー?」
「さっき散々晶が言ってたじゃないか。大地のバカーって。俺とサッカーとどっちが大事なんだって。比べられないものを比べるのは、いい大人のすることか?」
と、自らの言葉尻を捉えて返されてしまえば、死んでも晶と同レベルだなんて思われたくない久住としては我慢するしかないが。
「あなたがそーやって晶さんばかり可愛がってると、俺はどんどんあの人が嫌いになるけど、それでもいいんですね」
との少々の意趣返しは忘れない。
「それはいいんじゃない。晶だってお前を嫌ってるし。そーゆーの何てゆーか知ってるか?」
嬉しそうに言う芳に、久住は渋面を作る。
「なんか、とぉーってもイヤなこと考えてるでしょう?」
「同族嫌悪ってゆーんだよ」
「………………」
失礼な人だ〜!
芳じゃなきゃ許さないところだが、実は久住もバカじゃないから薄々は気がついていた。
晶の大地に向ける独占欲は、自分が芳に向けるものとイヤと言うほど似てるのだ。
普段は、身勝手じゃなければ生きてこれなかったと開き直っているつもりだったが、それを目の前で他人に体現されてしまうのは決して愉快なものじゃない。
(でも、俺はあそこまでガキじゃないけどね〜)
と、思っているのは久住だけ。
お兄さん気質の芳から見れば、二人ともとっても手数のかかる可愛い可愛い我が儘っ子なのだ。
その一人が隣の部屋で落ち込んでいるのに、自分だけ楽しもうって気にはちょっとなれない。
それでなくても芳と晶には、双子の神秘とでもゆーか、離れていてさえ互いの気持ちにシンクロしてしまうという不思議な絆があった。
特に芳は、晶の苦痛や悲しみの感情に引きずられやすい。
弟の痛みを共有してあげたいという、兄としての優しさなのかもしれないが……。
隣の部屋に、落ち込んだ晶がいるのに、一人だけ久住と楽しむなんて気にはなれるはずがない。
「結局、大地が真っ当すぎるんだよな。ノーマルで女にもモテて、たぶん恋愛を知らないだけで、これから女を好きになる可能性がないわけじゃないんだから。晶が不安になるのもわかるよ」
年齢以上に大人びているとはいえ、大地はまだ18歳。
将来有望な恋人に、晶が不安を覚えるのは当然だろう。
「あなたは不安じゃないんですか?」
と、すっかり拗ねてしまった久住が問う。
「あー?」
「あんまり冷たくされると、俺だって、誰かに心変わりするかもしれませんよ〜」
「お前が女に?」
「女でも男でも……」
「へえ〜、そりゃあすごい。お前が他人に好意を感じてくれたら、俺は赤飯炊いて祝ってやるよ」
「何ですか、それは〜?」
「お愛想笑いで世間を誤魔化しながら、実は他人なんて利用できる道具くらいにしか思ってない。冷酷とか非情とか性悪とか人でなしとかってゆー以前に、たとえ地球が滅んでもこの部屋だけ残ればいいと思ってるほど人間って存在自体が目にも入ってないお前に、他人への好意が欠片でも芽生えるとは思えない」
「そこまで言いますかー? 自分の夫に向かって」
「誰が夫だ、誰が〜☆」
「毎晩、素晴らしい一物であなたを楽しませてやってる俺が、夫以外の何ですかー?」
「あっ…ああああんなモンを自分で素晴らしいとかゆーなっ!」
「自分で言わなきゃ、誰が褒めてくれるんです?」
「過去の女が散々褒めてくれただろう?」
「あなたいわく、存在自体が目にも入らない連中に褒められたって、爪の先ほども嬉しくないですよ」
「そーゆーもんか?」
「そーゆーもんですよ」
と、久住は芳の耳元に唇を寄せる。
「あなたが、うっとりした顔で、色といい艶といい形といい太さといいサイコーだ、夢みたいだ、早く挿れてくれって、その美しい唇で俺のモノをしゃぶりながら言ってくれたら、躍り上がるほど嬉しいですけど」
「死んでも聞けないと思え!」
あまりにキッパリ言い捨てる芳に、久住はやっぱりね〜と少々落胆はしてみせたものの、それでもいつかはと心にメラメラと闘志を燃え上がらせるのだった。
久住弘樹、こと芳に関しては懲りるってことを知らない男なのだ。
「まあ、気長に迫りますよ。野望は他にも色々ありますから」
「お前の野望って、そーゆーもんばっかりなわけ?」
「ないしょ」
そのウチのいくつかは、今度の旅行でかなえられるはずなのだ。
まず、膝枕だ。それから、何より温泉H!
と、久住の野望は、その情熱に比べて非常にささやかではあるのだが、常識人の芳をその気にさせるのは、なかなか大変なのだ。
「そうだ。野望とゆーほどじゃないけど、前々から一つ、気になってたことがあるんですけどね」
「ん…?」
「晶さんも、大地も、公平も、小生意気な従兄弟の潤も、大河と海斗のバカ兄二人も、あの幼馴染みのクソ勇馬でさえ名前で呼んでるのに、どうして俺だけ久住なんですか?」
べつに久住にとっては、芳とイチャイチャできれば呼び名などどーでもいいのだが、と何気に発した問いに、芳はこいつ気づいてやがったかと言わんばかりの意味深な沈黙で答えたのだ。
「……………………」
「何ですか、その沈黙わ〜?」
「気にするな。まったく、ぜんぜん大した意味はないっ!」
「それ、メチャクチャ意味ありげですよ〜。何なんですか?」
「だから、ただの慣れだ」
「じゃあ、一度くらい弘樹って呼んでみてください」
「……………………」
「ほら、また黙る〜」
「いやー、俺って体育会系だしー」
「それだったら、7つも年下の大地は、それこそ苗字で呼び捨てにしててもいいはずじゃないですか」
「あれは〜、晶が名前で呼ぶから、うつったんだよ」
言語明瞭の芳らしくもなく、あれやこれや逃げる逃げる。
あげくに、プイッとそっぽを向くと、
「いいじゃないか。お前は久住って生き物なんだよ」
と、わけのわからないことを言い出す始末。
「すっごく怪しい言い訳ですね〜」
「俺が久住って呼びたいんだ。それでいいじゃないか」
「それはかまいませんよ。だから、一度だけでいいから呼んでみてくださいって」
と、久住は芳の身体に覆い被さって、その耳たぶに口づけながらおねだりしてみる。
「…………………」
「どーしてそこで沈黙するかなー?」
「お前、嫌い〜」
何を言っても、ムッツリ声で拗ねまくるだけ。
これには久住も驚いた。
芳がこんなに子供っぽい態度をすることなど、めったにない。
可愛いと言えば可愛いのだが、ここまで思わせぶりな態度を取られれば、どうしたって理由が気になってしまう。
もちろん、芳にしてみれば、理由は大ありだった。
久住の元カノ、もっとハッキリ言えば公平の母親なのだが、篠崎柚子が久住を名前で呼んでいたのだ。
たとえ、久住にとっては利用価値があったから寝ただけの相手でしかなくても、公平の母親という意味で絶対的に特別な女がそう呼んだ。
『弘樹』
と、どこかに未練を匂わせた声で。
それを聞いたとたん、芳は絶対に柚子と同じ呼び方はするものかと決めたのだ。
ただの嫉妬。
それも、ひどく幼稚な嫉妬にすぎない。
でも、久住と関係した女達のほとんどは名前を呼んだだろう。
『弘樹』と甘ったるく喘ぎながら、その腕に抱かれたのだろう。
苗字を呼ぶ場合でも、『さん』づけしたはず。
だから、芳はどちらの呼び方もしない。
自分だけが、久住の特別でありたいから。
『久住』と呼びながら抱かれる唯一の者になるために。
でも――…。
(そんなこと恥ずかしくて言えるかよっ!)
と、ムーッと口をつぐむ芳だが、久住だって諦めない。
「ねえ、どうしてなんです?」
「言ったら、図に乗るから……」
「何ですかそれぇ? 教えてくださいよ。気になって眠れないじゃないですか。いいんですか、俺が不眠症になって会社で居眠りこいても」
むろん、久住は不眠症になるなんて可愛い神経の持ち主じゃない。
でも、お兄さん気質の芳は、自分のせいで誰かに迷惑をかける結果になることを嫌う。
「ねえ、芳…」
と、甘えるように聞かれれば、心も揺れる。
「笑うなよ……」
「何で笑うんです?」
「……柚子さんが、そう呼んでた」
ポツリと、小声で芳は白状した。
「え…?」
「もう言わない」
久住の腕から逃れると、パフっと布団に潜り込んでしまった。
「柚子が…?」
もちろん久住にとっては忘れることのない女だけど、それが芳が自分の名前を呼べないことと、どーゆー関係があるのだ?
(もしや、これは嫉妬だったりして……?)
布団からチラと覗いている芳の耳たぶは、ほんのりと火照りの色に染まっている。
(か…可愛いっ! 可愛すぎるぅぅぅっ〜!)
もちろん、久住が大喜びしたのは言うまでもない。
背中から芳を抱き締めると、うっとりと囁いた。
「いいですよ。一生名前なんか呼ばなくても」
「し…知らない……」
「呼び方なんてどーでも。あなたが俺を呼んでくれれば」
もう、久住は天国にでも昇る気分だ。
「だから、好きなだけ呼んでください。過去の女達なんか、全部あなたの声で忘れさせてください」
「え…? ちょっと……」
と、振り返ろうとしたときには、すでに久住の手は、芳の下半身を剥きにかかっていた。
そりゃあ、芳に嫉妬させてしまったのだから、男としてはとことん責任を持って、愛していると証明してやらねば。
心も、身体も、たっぷりと――…!
「さあ、うんと可愛い声で呼んでください」
「お…おい…、今夜はしないって……」
「いいえ。そんなことを聞かされたら放っておけません。あなたは嫉妬する必要も不安を感じる必要もないんです。あなたが俺にとってどれほど特別な存在か、ちゃんと証明してあげます」
「って、だからー、何で話がそっちにいくんだ――…?」
これは、ヤバイことを言ってしまったかと、芳は思った。
もちろん今さらだったが――…。
結局、その夜、芳は思いっきり図に乗りまくった久住に、死ぬほど泣かされる羽目になったのだ。
「もう…いやぁぁぁぁ――…! 久住ぃ――…」
と、夜のしじまに響き渡る芳の嗚咽は、隣の部屋の晶の耳にまでしっかり届いていた。
(あ…あいつらぁ〜、俺がいるのにぃ〜!)
哀れなのは、悶々として眠れぬ晶か、久住に犯られまくってる芳か。
どちらにしても、ご愁傷様。
END