第三章 第九回


 相変わらず、ナギの診療所を訪れる患者は、女子供ばかり。
 ルイの命を盾に所領の診療所を片っ端から巡ってみたが、どこへ行っても〈北〉の医師達はナギの言葉に耳を貸そうともしない。
 患者達はナギを男娼扱いして、ちょっかいをかけてくる。
 結局、不衛生きわまりない実態を見せつけられただけだ。
 地方の村に行けば、事情はさらに悪くなる。
 医師などいるはずもなく、井戸があるればマシという状況だ。
 だが、この劣悪な状況下で、それでも逞しく生きている人々の生命力にナギは驚かされる。
〈北〉の民はめげることを知らない。
 雨の少ない乾いた大地を開墾し、少ない緑を大切に育て、たとえ飢えたからといってむやみに獣を乱獲せず、見事に自然と共存して暮らしている。
 そうして、〈北〉の心を知るに従って、ナギも少しずつ彼らのやり方に慣れていった。
 どれほどナギが声高に叫んでも、そのきれいすぎる容姿が邪魔をするなら、もっとも権力のある者に直談判すればいいのだ。
〈北〉の男は、強い者の言葉になら従うのだから。

 夏がすぎる頃には、〈南〉とはあまりに違う直訴状の書き方もすっかり覚え、蘭月経由でルイに手渡す図々しさも身につけた。
 何もかも、この地に生きる人々のため。
 苛烈な環境の中で生きる幼い命のため。
 身を削って子供を産み続ける女達のため。
 戦いでキズつき、満足な治療も受けられぬ男達のため。
 利用できるものはなんでも利用しようと開き直ったナギは、今日も少々荒っぽい言葉で書状をしたためていた。

    ◆◆◆

 ――ルイの居城。
 その最上階の寝室で、蘭月は必死に笑いを堪えてナギからの書状を読み聞かせていた。

「敬愛すべき国王陛下。さて、このたび診療所の衛生面についてご報告申し上げます。あれは診療所とは呼びません。ネズミの巣です」

 目の前で敷物に寝そべったルイの顔が、どんどん硬化していく。

「不衛生きわまりない環境では病人を作っているようなもの。賢き陛下にあらせられましては、すでにご承知のことと存じますが、診療所に最低一人は専門の清掃人をおかれますことを進言いたします」

 一気に読み上げると、それが確かにナギの筆であることを見せるためにルイに手渡した。
「あの野郎〜!」
 書状を横目で一瞥し、ルイは苦々しげに言い放った。
「そーゆーのをなんという? 下手に出ているようでいて、実はとことん相手をバカにしくさった物言いを」
「慇懃無礼」
「そうだ! 無礼にもほどがある!」
「なんなら引っ立ててこようか? 首でも刎ねれば、二度とこんな世迷い事を聞かされずにすむぞ」
 蘭月は、面白そうに提案する。
「世迷い事か?」
「そう思ってるんじゃないのか? 賢き陛下は?」
「その呼び方をやめろと言う! 誰が陛下だ、誰が?」
「では、王よ。ナギの書状には何と返す?」
「知るか!」
「知るか……と」
 これ見よがしに、蘭月はわざわざ文をしたためる。
 ルイの褐色の手が、それを横から引ったくって破り捨てる。
「紙がもったいないな」
 わざとらしく肩をすくめて見せる蘭月に、ルイは忌々しげに命じる。
「うるさい! さっさと手配しろ」
「何を?」
「だから、清掃人だ!」
「格診療所に一人。高つくぞ〜」
「お前の給料からさっ引いてやる」
「悪いねー。俺は無料奉仕でお前の我が儘に付き合ってやってるんだ。一銭も出せないぞ」
 ルイは、まさか、と言わんばかりに蘭月の顔を見る。
「なんだ、知らなかったのか?」
「…………」
 知らなかったのだ。
 そんな奥向きのことまで関知してる暇はないから、てっきり給金を払っていると思っていた。
 では、ただ働きしている人間を毛嫌いして、散々文句を言ってきたことになる。

「俺は〈北〉で一番稼ぎのいい男娼だぞ。こんな貧乏王家から金をむしり取れるか」
 してやったりの蘭月。
 ルイはギリリと眉を吊り上げ、声高に命じた。
「清掃業者は、守弥に頼め!」
「はいはい、守弥様に借金と」
「違う! あいつに無料奉仕させろと言ってるんだ」
「今までも散々させてる。薬品、武器、食料。お前が寝ているその敷物だって、守弥からの贈り物だ」
「くっそぉ〜☆」
 髪をかきむしるルイを見ながら、蘭月は言った。
「楽しいねぇ〜。王様って仕事は」
 と、イヤミたっぷりに。

    ◆◆◆

 約一名、理不尽な不満を抱えている者もいるが、夏が過ぎる頃には、運命に引き寄せられるようにこの地に集まった者達の間に、それなりの人間関係ができつつあった。

 伊佐は周期的にルイと会合を持ち、〈砂漠の民〉と〈北〉との融和に努めていた。
 そして、〈北〉を訪れるさいには、ナギの褥に夜這いをかけることも忘れなかった。

 光輝と氷雨は、対立する部族の長として表面上は仲違いしたまま、変わらぬ日々を送っている。
 むろん、その態度の裏で、光輝が虎視眈々と氷雨を狙っていることに蘭月だけは気づいていたが。

 守弥は、やがてくる決戦の時のために、貿易で荒稼ぎした金で武器を買いあさっていた。

 そして、ナギは、そんな男達の生き様を見つめながら、医師としての勤めに励み続けていた。
 一つでも多くの命を救うために――…。

 だが、ようやく軌道に乗り始めていたそれぞれの営みは、秋が間近に迫ったある日、予想もしなかった形で断ち切られることになる。

    ◆◆◆

 その日、ルイの所領は至って平穏だった。
 ルイは〈砂漠の民〉との会合のために、光輝や氷雨以下、それぞれの族長達を伴って、オアシス都市〈緑の聖地〉へと赴いていた。
 所領の住民も、王の留守をあずかる兵士達も、〈砂漠の民〉とのいざこざが減ったことで少々緊張感を欠いていたかもしれない。

 それは、前触れもなく始まった。

 けたたましい蹄の音と、あたりをつんざく人々の悲鳴に、ナギは何事と家から飛び出した。
 そして、見た。
 黒いマントで全身を覆った数十名の盗賊どもが、〈砂漠の民〉特有の大刀でもって、目につく者を手当たりしだいに切り捨てているのを。

「やめろ…! やめろぉぉぉ――!」
 夢中で叫びながら、修羅場に向かって走り出す。
 倒れてる幼子を抱き上げ、その命がすでに尽きていることを知って、愕然とする。重い病で伏していたが、ナギの治療によって快方に向かっていた子供だった。
 ようやく外で遊べるようになったと喜んで報告に来たのは、つい昨日のことだ。
 その子が、今、ナギの腕の中で冷たくなっていく。

「何故……?」
 ナギは顔を上げ、修羅の惨状を見据える。

 盗賊どもの高笑いの中、ナギが救い上げた命の火が、一つ、また一つと、死に神の愛の吐息を浴びて消えていく――…。
 これが、人の世の定め。
 これが、戦に生きる民の定め。
 では、自分は何のために存在している?
 救ったそばから、命は虚しく消えていく。
 一つの命を救っても、どこかでその何倍もの血が流される。
 では、医師とはいったい何者ぞ?
 救うことに何の意味がある?
 この世界は殺したがっている。
 血を流したがっている。
 争いたがっている――!

(ならば、私のこの命をまず消してくれ……!)

 神よ!
 そこにおわします神よ!
 砂漠と〈北〉を見守る、唯一の神よ!
 これ以上この血塗られた世界を見ずにすむように。
 これ以上苦しみを抱いて生きていかずにすむように。
 まず、この私を殺してください――!

 立ち上がり、両手を空に向けてナギは慟哭する。
 その姿に、盗賊の一人が気づく。黒い馬に跨り、黒き衣に身を包み、血塗られた大刀を振りかざすその姿。
 あれぞまさに、死の使者!
 累々と地に横たわる者達の屍の中に、ナギは頭を上げ凛と立つ。
 盗賊は馬に鞭を当て、ナギの方へとまっしぐらに突進してくる。
 ついに、苦しみから解き放たれるのだ――…。
 ナギは微笑み願う。
 その剣にて、この首を落としたまえ。
 その蹄にて、この身を砕きたまえ。
 粉々になった身体のすべての破片が、愛しい人の名を叫ぶだろう。
 左の腕は王の名を。
 右の腕は伊佐の名を。
 左の足は王の名を。
 右の足は伊佐の名を。
 2人への想いに引き裂かれた心が、ようやく愛するただ1人の名を叫ぶのだ。

 盗賊は高々と掲げた剣を、ナギめがけて振り下ろす。
 が、剣は空を切り地面へと落ちる。
 そして、剣を捨てた盗賊の手は、そのままナギの身体を捕らえる。
「何を――?」
 あっという間に小柄なナギの身体は、馬上へと引き上げられてしまった。
「お前を所望のお方がいる」
 言いながら、盗賊は口元を覆っていたマントをはぎ取る。
「だが、その前に、味見をさせてもらおう」
「ひっ……!」
 ナギの唇が驚愕の叫びをあげようと開いたまさにその時、捕らえたばかりのか弱き獲物に、最初の奉仕をさせるために盗賊の唇が押しつけられた。
 黒い馬は、その背で交わされる営みも知らず、手綱の示すままに走り続ける。
 目指すは約束の地、〈南〉の王都――…。


        to be continued