第三章 第八回


朝まだき、情事の後の深い眠りに陥っている光輝の腕の中から、氷雨はコッソリと抜け出した。
 気配に敏感な光輝のこと、普段ならすぐにでも目覚めるはずなのに、長年憧れ続けていた氷雨との情交の後とあってか、まったく無防備に眠り込んでいる。
 子供のような男だ、と氷雨は思い、だが、寝顔など眺めてるほど感傷的になっている余裕はないとばかりに、さっさと部屋を出ていった。

 途中、朝食のテーブルについていた蘭月が、待ち受けていたように声をかけてきた。
「驚いたぞ、光輝の客がお前とは」
 からかいを含んだ問いに、むろん氷雨は答えなどしない。
 昨夜とは打って変わったようににこやかな顔の従者が差し出したマントを受け取り、そのまま玄関に向かう。
「そこまで送ろう」
 と、蘭月が馴れ馴れしく肩を抱いてくる。

 誰にも聞かれぬようコッソリと氷雨の耳に囁いた。
「いつかこの日がくるとは思っていたが、思い出したか、あいつは?」
「…………」
 ピクと、氷雨の足が止まる。
 蘭月は、返事など期待はせず、ただ語り続ける。
「まあ、そろそろ暗示を解いてもいい時期だとは思ってた。ルイが王座につき、彼女を失った悲しみに勝る希望ができた以上、あの時のようなことにはならんだろう」
 氷雨は、黙ったまま耳をすませている。
「今さらだが礼を言っておく。あの時お前がいなかったら、お前が光輝に暗示をかけなければ、俺達は最高の戦士を失っていた」
「…………」
 まったく、今さらだ。
 と、氷雨は語らぬ胸の内で思う。
 何があっても、光輝を失うわけにはいかない。
 それは、蘭月と守弥だけの願いではなく、氷雨自身の願いでもあったのだから。
 蘭月に頭を下げて頼まれなくとも、あのまま光輝の狂気が続けば、氷雨自らその方法しかないと思い立ったはずだ。
 あの少女は、それほどに光輝にとって大切な存在だった。
 唯一無二の妻だった――…。

 守弥の貿易船に密航し、〈西〉を経由して〈北〉にやって来た時、まだ少女は12歳。
 船倉に隠れていた痩せこけた少女を、船主の守弥は責めるどころか自らの屋敷に連れて戻り、最高の看護を受けさせた。
 無条件に女を大事にする〈北〉では、それが当然のことだった。
 だが、〈北〉に流れてくる者のほとんどがそうであるように、彼女もまたラーラという名以外、過去を語ろうとはしなかった。
 それでも、黒い瞳と髪で〈南〉に生まれてしまった者がたどる過酷な運命を、背中に残る生々しい鞭の痕からかいま見ることはできた。
 栄養失調と鞭打ちの傷のために衰弱しきった少女は、それから1年もベッドに伏したままだった。
 当時、守弥の世話になっていた15歳の光輝は、少女のために毎日花を摘みにいった。
 冬には小さな雪兎を作ってきて、少女の心を慰めた。
 荒くれ男しか知らなかった少年の、それが初恋だった。
 出逢いの時から3年、望み望まれるままに結婚し、命の最後の炎を燃やすために光輝の腕に抱かれ、たった1週間で雪のように儚く消えていった少女――…。

「お前の黒髪と黒い瞳が、どうしても光輝には必要だった」
 蘭月は語り続ける。
 我慢することを知らず、欲しいものを奪い取り、思いのままに生きてきた激情家の光輝が、初めて味わった深い悲しみと絶望。
 それは、周囲が予想していた通り、光輝を狂気へと駆り立てた。
 悄然としたまま、ラーラの命が消えていったベッドに伏したまま、飲まず食わずで日々正気を失っていく光輝の精神を救うために、蘭月と守弥は最後の手段を使うことにした。
 麻薬の見せる幻覚の中で光輝に暗示をかけ、悲しみの記憶だけを奪い、失った少女の代わりに光輝の想いを魅きつける者を与える。
 そのために、どうしても必要な者がいた。
 少女と同じ黒い髪と黒い瞳を持ち、また、姿だけでなく、心までも光輝の中に入り込めるほどの存在であり。
 さらに、不安定な光輝の精神状態を見極めながら暗示の言葉を囁けるだけの知恵を持った人間。
 それが、氷雨以外にいるはずもなかった。
 だから、頭を下げた。
 反目する〈黒〉の族長に。
 光輝を救うために力を貸して欲しいと。
 その結果、光輝は彼女を失った悲しみを忘れ、暗示をかけ続けた氷雨に、彼女へ向けたものと勝るとも劣らない思慕を抱いてしまった。

「そのせいで光輝の記憶の中に、必要以上にお前の存在が擦り込まれてしまった可能性は大きい。光輝のお前への恋慕が本来のものなのか、俺達が作り上げてしまった幻想なのか、それもわからない」
「…………」
「ある日突然、光輝のお前への気持ちが冷めてしまうかもしれない」
「…………」
 黙ったまま、氷雨は蘭月の顔を見つめた。
 こんな朝でさえ、凪いだ海のように静まり返った瞳に向かって、蘭月は問う。
「それでも後悔はないか?」
 氷雨は瞑目し、微かな笑みを口元に浮かべた。
 それは一瞬のことで、すぐに無表情の仮面の下に隠れてしまったが。
「氷雨…」
 呼びかけに答えず、氷雨は蘭月の手を振り払うと、雨上がりの光の中に足を踏み出した。

 たとえ何を失うことになろうと、歩き続けるしかないのだ。
 朝日の中に消えていく氷雨の背中がそう語っているように、蘭月には見えた。
 動き出した歯車を止めることは、もう誰にもできないのだから。

    ◆◆◆

 目覚めた光輝は、隣に氷雨がいないことに気づく。
 驚きはしない。
 あの男のことだ、用さえすめば、さっさと姿を消すだろうことは予想していた。
 それでも、ベッドにはまだ氷雨の匂いが残っている。
 シーツの残り香に顔を埋め、ふと、奇妙な既視感を覚えた。
 以前、これと同じようなことをして、同じような切ない喪失感に襲われたことがある。
 たった1週間だけの妻だった彼女が逝った翌日、眠られぬままに迎えた朝、ベッドに残った彼女の微かな残り香に気づき、狂ったように泣き喚き…、その後の記憶は定かにはない。
 そして、3年たって再び蘇った悲しみは、確かに胸を突き刺しはするが、ルイが王座につき新たな希望が生まれた今、それに押し潰されることはない。

「ラーラ」
 声に出すと、今でも愛しさと切なさに胸が震える。

 光輝は氷雨の匂いに包まれながら、目をつむる。
 何人の男と抱き合っても、熱い楔でいっぱいに身の内を貫かれても、心のどこかに決して埋めきれないものがあった。
 目覚めた時の味気なさに、さらに熱い男を求めてきた。
 だが、それが間違いだったと気がついた。
 誰の仕業か、自分の中から消し去られていた悲しみを思い出した今、足りないものにようやく気づいた。
 欲しかったのは、ただ一人。
 愛しい少女の面影を宿すあの男。
 二度と後悔はしない。
 だから、必ず手に入れる。

 黒い瞳、黒い髪の、あの寡黙な男を――!

    ◆◆◆

 雨上がりの朝、ナギは、早速行動を開始していた。
 ルイの言葉にキズつき泣き続けることより、医師として自分に科せられた運命をまっとうするために。
 まず、〈北〉の医療の実態をこの目で確かめなければならないとやってきたのは、診療所とは名ばかりの、草ぶき屋根に石造りのみすぼらしい建物で、あちこちチョロチョロとネズミの這い回る不衛生極まりない場所だった。
(なんとまあ、★監獄の間違いじゃないのか? これでは病人を作っているようなものだ)
 案内してくれた〈北〉の医師に、思わずイヤミの一つも言ってやりたくなる。

「まず、掃除を行き届かせることから始めなければ。ネズミは菌を運んできます。ほかにも害虫が入り込む隙間を埋めて衛生にしないと、病人は減りません」
 当然のことを進言するナギに、だが、〈北〉の医師達は揃って顔をしかめた。
「〈北〉の男は少々のことで病気になどならん。ここにいるのはケガ人ばかりだ。お前はケガの治療のために来たんだろう?」
「不衛生にしておけば傷口も化膿します。まず、皆さんで掃除をするところから始めましょう」
「そんなヒマがどこにある。次から次へとケガ人は運ばれてくる」
「でも……」
 ナギの言葉に耳を貸すものなど、いるはずもない。
「掃除をしたければ自分でしろ」
 と、それぞれの持ち場に散っていく。

『難しい仕事だ』
 と、ルイは言っていたが。
 こういう難しさだったのだと、ようやく知る。
〈北〉の医療は、傷口を包帯で縛り、薬湯を与える。
 それだけのことなのだ。
「しょうがない。掃除からするか……」
 ナギは、木桶とモップを探し出してきて、薄汚れてカビの生えた病室の掃除を始めた。
 入院患者は、ほとんどが戦いで負傷した荒くれ者ばかりだ。
 男娼と見間違えるほどに見目麗しいナギが掃除など始めれば、イヤでもからかいの視線が向く。
「遊ぼうじゃねーか」
 と、暇を持て余した患者の手が、ナギの尻を触ってくる。
 モップを横取りして邪魔をする。
 あげくは、ベッドに押し倒そうとする者まで現れる始末。
 病人相手と知りつつも、そこまでの無体を許すわけにもいかず、急所に一撃食らわせて事なきを得たが。
 そのあげく、そこまでベタベタとナギに触れてきた連中が、いざ治療を始めようとすると、
「〈南〉の医師なんぞに、診せられるか」
 と、包帯一つ取り替えさせてくれない。
〈北〉の男達の傍若無人さに、たった1日でナギの心は疲弊しきってしまった。

    ◆◆◆

 あたりがすっかり夜の帳に覆われた頃、ナギは疲れ切った身体を引きずりながらようやく自分の家へと戻ってきた。
 ふと、部屋の中に誰かの気配を感じ、暗がりの中に目を凝らす。
 藁と毛布で設えられた粗末な寝床に、男が座っていた。
「ずいぶん遅くまで仕事だな」
 今はもう耳に慣れた声。
「伊佐様……!」
 ナギは伊佐の前に跪き、まるで主人に仕える下部のように深々と礼をとる。
「すみません。おいでだとは思いませなんだ」
「ルイに呼び出された。また面白くもない族長会議だ」
 ルイの名に、ナギは額づいていた頭を上げた。
(あの方は、私の心を疑っておいでだった……)
 その事実が、再びナギの心に蘇ってくる。
 信じて欲しかった。
 愛が揺らいだわけではないと。
 だが、こうして伊佐を前にすれば心は騒ぐ。
 その逞しい雄芯で貫かれることすら、快感となってしまった今となっては。
「今日は、なにゆえのお越しでしょうか?」
 答えのわかっていることを、あえて問う。
 自分は奴隷でしかないのだから、伊佐の前では、命じられなければ動くこと一つできぬ。
「俺がお前に逢いに来る目的など、一つしかない」
 伊佐は傲慢に言い放つ。

「脱げ。そして、尻を出せ」

 それが伊佐の望みなら、ナギに逆らう術はない。
 自ら衣を脱ぎ捨て、粗末な褥に身を横たえる。
 伸しかかってきた伊佐の身体から、乾いた砂漠の匂いがした。

    ◆◆◆

 さて、一方、ここはルイの居城。
 今夜も少々荒れ気味の王様は、寝所に誰を連れ込むこともなく、一人酒をあおっていた。
 本来なら妻達を愛してやらねばならないところなのだが、昨日から続くイライラがどうにも治まらず、その気にもなれない。

 男達の大半が、老衰ではなく戦いの中で命を落とすこの時代、男同士の契りは、ある意味夫婦のそれより強固なものだった。
 妻は夫を失っても、新たな夫を見つけ、次代を担う子供達を育てていかねばならない。
 だが、男同士の契りは、一方が命を落とした時、その想いを肩代わりすることで、また、復讐を成し遂げるという形で続くのだ。
 そうして想いが成就したあかつきには後を追うことすらいとわない。
 圧倒的に女の少ない〈北〉では、女が自刃することはないが、男は存外簡単に命を投げ出すものなのだ。
 金のない男は、妻もめとれず子も成せない。
 何も残せない男にとって愛に殉じることが一種の美学でもあった。
 だから、男同士の誓いが破られることはめったにない。
 むろん、ルイは王であるから、誓いを示される方であって示す方ではないし、ルイに誓いを立てた男が裏切ることはまずありえない。
 光輝にしても、伊佐にしても、心変わりなどするはずもない。
 ルイが死ねと言えば、喜んでその身を差し出すだろう。

 が、ナギは。
「あの様子では、伊佐のためにも死ねるな」
 それは、ひどく不快なことだった。
 伊佐の奴隷になれとは言ったが、心までくれてやれとは言わなかったはず。
 どれほど身体が伊佐に慣れようとも、気持ちが自分から離れることはないと思っていた。
 なのに、ナギの中で、今やルイと伊佐は同列なのだ。
「ふざけた男だ。たとえ、それが誰であろうと、王である俺と同等に置かれていいはずはない。それくらいわからんのか!」
 と、自ら伊佐の奴隷になれと命じておきながら、そんなことで憤慨しているのだ。
 この、愛されるのが当たり前の傲慢男は。

    ◆◆◆


 ルイが、つまらぬ嫉妬で憤慨している時。
 人知れぬ砂丘の陰で、黒いマントで顔を覆った男達の怪しげな密会が行われていた。
 多数の決定に添えない者はどこにでもいる。
 それも、長として立つのが、まだ伊佐のごとき若輩者となれば、造反をもくろむ者が現れるのも、また必然。

 謀略は密やかに、だが、確実に進行しつつあった。


        to be continued