第三章 第七回


(待て、待て、待てぇぇぇ――…!)
 光輝は荒ぐ気持ちを、必死に落ち着かせようとしていた。
(そ…空耳かもしれない……)
 と、パニクる光輝の前で、氷雨は常と変わらぬ無表情な仮面を被ったまま佇んでいる。
 長年対立し続けてきた〈黒〉の一族の長。
 それは、光輝と氷雨がその任を継ぐ以前から、双方の部族間に横たわっていた確執だった。
 今さら二人にどうこうできるものでもなく、お仲間付き合いなどルイか蘭月を介してしかしたことはなかったのだ。
 こうして二人っきりで顔を付き合わせていること自体、光輝にはめったにない経験なのに。
 その氷雨が何と言った?

「今、伽の相手をしろとか言ったか?」

 念を押して訊き返すと、氷雨は微かに頷いた。
「それは、俺に言ってるのか?」
 氷雨は、再び頷く。
「なんでぇぇぇ〜!?」
 光輝は、めいっぱい驚きの声を張り上げた。
「お前がなんで俺と…その、ナニをだ……」
 シモネタ大好きの光輝が、らしくもなく言い淀んでしまうのは、やはり相手が氷雨だからだ。

「明日、21になる」
「ああ…?」
 光輝は頷いて、次の言葉をしばし待ったが、氷雨の唇はそれ以上動こうとはしない。
「それだけか? 明日、21になるのが理由?」
「…………」
「20歳最後の記念ってことか? 驚いた、お前ってそーゆーことに拘るヤツだったのか?」
「……………………」
 氷雨は、再び押し黙り、そのままきびすを返した。
 慌てて光輝は、氷雨の前に回り込み進路を塞ぐ。
「待てよ! 文句を言ってるわけじゃねえ。驚いただけだ。何かきっかけが欲しいってのはわからなくもない」
 氷雨の足が止まる。
「あんたの場合、その…、まったくお初なわけだから」
「…………」

 氷雨が童貞だということを知らぬ者などいない。
 砂漠一の偉丈夫、伊佐が迫って落ちかった数少ない男として氷雨の話題はどこでも上がるが、自ら氷雨と関係したと言い出す者はただの一人もいないのだから。
〈北〉の男は誰を相手にしたかを自慢したがる。
 できうるなら、もっとも恐れを知らぬ荒々しい男を組みしだき、その身に己が一物を埋め込み、よがり悶えさせてみたいと誰もが思い、またそれを成し遂げることに誇りを持つ。
 だからこそ、一番美しい蘭月より一番強い光輝を得たいと、皆が望むのだ。
 そして、氷雨は、誰よりも美しく強い男なのだ。
 もしも氷雨と関係した男がいるなら、黙っているはずがない。
 だが、そのことを口にする者はいない。
 言えないのだ。
 氷雨を抱いた者も、氷雨に抱かれた者もいないから。

「俺でいいのか、黒の長よ?」
 黒の長…、氷雨を育てた今は亡き賢者を、尊敬を込めて光輝はそう呼んでいた。
 それは、まだ守弥から所領を譲られる前の話。
 部族同士の対抗意識など意にも介さぬ光輝は、〈北〉でもっともすぐれた知恵者である〈黒〉の長老の元に足繁く通っていた。
 戦術を学ぶためだ。
 腕には自信があったが、組織を束ねて作戦を立てるとなると、やはり経験者の教えを受ける必要があると光輝なりに考えたのだ。
 だが、黒の長は笑って言った。

『お前は学ばなくとも、戦うための天性の勘を持っている。足りない部分はそれに見合った男がいずれ現れよう』

 それは暗黙の約束だった。
 いつか光輝がルイの右腕となって戦地に赴く時、懐刀となるだけの男を用意すると。
 そういう意味だと思っていた。
 だが、未だ〈黒〉の一族からめぼしい男は現れていない。
 ただ一人、目の前にいる氷雨以外には。

「お前、俺の気持ちを知って、言っているのか?」
 欲望と、怒りと、畏れと、憧れがない交ぜになった気持ちで、その黒髪に触れる。
 美しい男。
 静淑な男。
 清らかな男。
 欲しかった!
 4年前、新たな〈黒〉の族長として初めて皆の前に現れた時から、欲しくて欲しくてしょうがなかった男。
 氷雨こそ、自分のために用意された男だと思っていた。
〈黒〉の長老が約束してくれた男だと!
 なのに、この4年間、氷雨は見事に光輝を無視してきた。
 視線すら合わせない。
 言葉を交わしたことなど数えるほどしかない。
 それも、その他大勢の中の一人としてだ。
 今日の今日まで、自分だけに向けられた言葉など一つとしてありはしなかった。
 だから、憎かった。
 だから、嫌っていた。
 自分のものであるはずの男が、自分を無視することが、我慢できなかった!

「俺を抱きたいのか? それとも、俺が抱くのか?」
 光輝の問いに、氷雨は一言答えた。
「好きなように」
「では、どっちももらう!」
 言うなり、光輝は氷雨を腕の中にさらって、ベッドに押し倒した。

 何もかも、もらう!
 唇も、胸も、男の印も、熱い内部も。
 誰にも渡さない!
 この男は俺のものだ!
 髪の毛一筋に至るまで、すべて俺のものだ!

 夢中で押し当てた初めての口づけは、雨の匂いがした。

    ◆◆◆

「氷雨が来てる?」
 光輝の屋敷を訪れた蘭月は、不満げな顔をした従者から意外な先客があることを聞いて、ニヤと口角を上げた。
 こんな雨の夜、来るか来ないかもわからぬ客を待って男娼館ですごすのもわびしいと、同じように相手を求めているだろう光輝の元に足を運んだのだが、氷雨が先客とあっては自分は用なしどころか、ただのお邪魔虫だ。
 いつか、この日がくることはわかっていた。
 遅いか早いかの違いだけ。
 ルイが王座につき、光輝にも新たな目的が芽生えた今、それはちょうどいい頃合いなのかもしれない。

「今さら帰るのも面倒だ。客室を用意してくれ」
 命じても、従者はなかなかその場を動こうとしない。
「光輝様の元へは、いかれませんのか?」
「やだよ。氷雨と二人っきりとところにノコノコ入っていったら、一生光輝に恨まれる」
「…………」
「そう心配するな。氷雨が光輝に悪さをするわけがない。その反対はあってもな」
 そんなこと、光輝のそばにいるものなら誰だって知ってる。
 短気、単細胞、感情的で、ポーカーフェイスなんて言葉とは対局にある光輝の気持ちなど、全部顔に表れている。
 だからこそ、従者の顔はどんどん不快げに歪んでいく。
 今までただの一度も自分から働きかけてこなかった氷雨が、わざわざ雨の中、光輝の元を訪れた理由など、部屋から伝わってくる気配で否応なしにわかってしまうから。

「そんな顔しなさんな。光輝の気持ちをどうにかするなんて、誰にもできやしないんだ」
「…そうですが」
 ブッスリとむくれていく従者の肩を、蘭月は優しく抱き留める。
「まあ、今夜は俺で我慢しておきなさい」
「え…?」
「客室じゃなく、お前の部屋に泊めてくれるんだろう?」
「あ……」
 間近から〈北〉でもっとも美しい男娼に微笑みを向けられて、よろめかない男などいるはずもない。
 氷雨と光輝のことなど、従者の頭の中からすっかり消えていた。

 ――だが。
(問題は、氷雨の生い立ちだよな〜)
 従者を笑みでたぶらかしながら、蘭月はひっそりと心の中で吐息をついた。
 光輝と氷雨がこうなることは、とうにわかっていたことだ。
 反目し合っているように見えながら、氷雨は完璧な無視という形で光輝を意識し続けてきた。
 そして、光輝にとって、氷雨が特別な存在だってことは、誰より自分がよく知っている。
 そうなるように仕組んだのは、自分なのだから。
 今さら悩んだところでどうなるものでもないが、氷雨の素姓を知っていれば、もっと別な方法を試したかもしれない。
 と、そこまで考えて、バカなことをと首を振る。
 あの時の自分に、そんな余裕などありはしなかった。
 光輝の耳には、守弥の声も、ルイの声も響かなかった。
 ならば、氷雨以外の誰を頼ればよかったというのだ?

 そう、あれしかなかった。
 光輝を失なわずにすむ唯一の方法は――…。

    ◆◆◆

 それは、不思議な不思議な交わりだった。
 ルイとも、蘭月とも、守弥とも違う。
 似てる男などいるはずもないのに、いつかどこかでその感覚を味わったような気がした。
 一夜だけの褥の中、氷雨の身体に跨り、自ら腰を揺らしながら、光輝は湧き上がる快感に押し流されそうになりながら、必死に記憶の中を探っていた。

〈北〉の男達は、享楽のためにだけ身体を繋ぐわけではない。
 互いの想いを分かち合い、信頼を深めるために、自らの一番無防備な姿をさらすのだ。
 なのに、氷雨はそれさえも拒絶する。
 確かに今、身の内に氷雨の欲情の証を感じているのに、めったに変わらぬ表情にもどこか苦悶にも似た色がうかがえるのに。
 その唇は微かな呻き声以外のどんな言葉も発しない。
 もっととも、欲しいとも、やめろとも、ダメだとも、何も言わない。
 何故、そうまで気持ちを押し込めるのか?
 語らぬ唇のその下に、いったい何を隠しているのか?

「お前、俺の気持ちを知っていて、仕掛けたのか?」
 訊いても、答えなど返ってくるはずもない。
「俺が、お前をっ――…!」
 言葉にならず、ただ遠吠えのような喘ぎ声を上げながら、ベッドを壊さんばかりの勢いで、激しく腰を上下させ続けるだけ。
 何故、この男はこんな時にでも熱くならない?
 自分だけが追い上げられる。
 夢中にさせられる。
 なのに、突き放されているような不安感もない。
 受け入れているのは自分のはずなのに、受け止められているような安堵感がある。
 氷雨のほとばしりを身の内に感じた瞬間、光輝もまた己の精を放ち飛ばした。
 瞬間、何かが心のドアを押し開けた。
 いつ、どこで、誰と、この想いを分かち合ったのか、光輝はハッキリ思い出した。

「……あ……?」
 脳裏に蘇る、悲しみの記憶。
 光輝の腕の中で15年の短い人生を終えた、愛しい少女。
「そうか……!」
 と、光輝は唸る。
 黒い髪、黒い瞳、同じ〈南〉からやってきた逃亡奴隷。
 似ていて当然だ。
 魅かれて当然だ。
 氷雨は、光輝の生涯ただ一人の妻と決めた少女に、驚くほど似ているのだ。
 彼女が15、光輝が17の時、病弱な彼女の命が、もう幾ばくもないと知っての結婚だった。
 そして、共に暮らして1週間めの朝、彼女は光輝の腕の中で冷たくなっていた。
 抱かなければよかったと、光輝は激しく悔やみ泣いた。
 自分さえ我慢すれば、彼女はもう少し生きられたはずだと。
 それでも、女から望まれて断る男は、この地にはいない。
 命懸けで光輝を愛し、逝ってしまった少女の面影は、今も光輝の中に生き続けている。

(ラーラ……!)
 その名を心で呟くのさえ久しい。

 どうして、今の今まで思い出さなかったのか?
 いや、記憶にはある。覚えてはいる。
 愛しい少女は、美しく優しい思い出となって、静かに胸の中で生き続けていた。
 だが、彼女を失ったその日以来、体中を苛んでいた悲嘆と苦痛と絶望を、どうして今の今まで忘れていた?
 気も狂わんばかりの慟哭を、この3年間、ただの一度も思い出さなかったのは何故だ?
 あまりに愛しい女だったがゆえに。
 あまりに辛い思い出だったがゆえに。
 堪えきれないほどの悲しみだったから、無意識に思い出すまいとしていたのか?

(いや…、違う……)
 ……そうだ。
 誰かが思い出さなくてもいいと言ったのだ。
 暖かい膝の上で、甘い麻薬の匂いの中で、それは夢だと優しく繰り返し囁いた。
 あの声は、誰のものだったのか?
 守弥か? 蘭月か? 誰かが意図して自分の記憶から、辛い部分だけを消したのだ。
 それが誰の仕業だったとしても、恨む気持ちはなどさらさらない。
 覚えていたならきっと、今も悲しみのどん底を這いずり回って、立ち上がることもできなかっただろう。
 だが、封じられていた記憶が、どうして今、蘇ったのだ?

「お前は何だ…?」
 光輝は問う。
 この男は何だ?
 これほど強く自分の感情を揺さぶり、魅きつける男は?
「お前は俺の何だ?」
 問うても答えなどない。
 わかっていても、訊かずにいられない。
「どうしてお前が――…!」
 叫びながら光輝は、猛り狂った己がものを、氷雨の中に深々と打ち込んだ。
「―――――!」
 言葉もなく、悲鳴も上げず、氷雨は光輝の前に身体を開いた。
 その意味を、まだ光輝は知らない。
 その覚悟を、氷雨は伝えはしない。

 窓の向こう、あれほど激しかった雨はいつの間にかやんでいた。
 雲を割って、優しい月明かりが覗いている。
 その中に、氷雨は一瞬、微笑む少女の幻を見たような気がした。

(ラーラ……)
 声もなく、氷雨の唇がその名を紡ぐ。

 まだ時は満ちてはいない。
 秘密は語らぬ男の胸の中、深く封印されたまま――…。

        to be continued