第三章 第四回


「逢ったことがある…?」
 蘭月は、ナギにではなく、自分に言い聞かせるように問いかけた。
「…………」
 ナギは無言のまま、ハッキリと頷いた。
「間違いなく、あいつにか?」
 さらに問い詰める募る蘭月に、ナギは答える。
「はい。幼い頃ですが」
「おいおい〜! ちょっと待てっ!」
 蘭月は頭を抱え、ナギの言葉を慌てて遮った。

 とんでもないことを言い出してくれたもんだ。
 氷雨に…、〈南〉にいた頃の氷雨に逢ったことがあるだと?
 それが本当なら、このナギという少年は、氷雨の氏素姓を知っていることになる。

 ――半年ほど前の氷雨との会話を思い出す。
 言葉少なに、蘭月を〈西〉の火種だと言い当てた氷雨は、自らも蘭月と同じ立場だとも言った。
 蘭月はその時、氷雨は〈南〉の王族なのだろうと推測し、秘密を己一人の胸の中に収めてきた。

 ここは〈北〉だ。
 過去を詮索しない国だ。
 秘密は秘密のままに、それがここの暗黙のルールなのだ。
 だが、氷雨の正体を薄々ながら気づいている蘭月にとっては、それは無視することはできない重すぎる事実。
 氷雨の口から答えを聞き出すことは、まず不可能。
 それでも、確認したいという欲求は何度となく蘭月の脳裏に現れては消えた。
 好奇心などという生易しいものではなく、氷雨の存在が〈北〉の命運に拘わるかもしれないからだ。

 蘭月は、天幕の外を確かめ、しっかりと入り口を封じた。
 そして、再びナギに問い、
「話せ。だが、やばい男の名は出すな」
 と、しかと命じる。
 その意味がわからぬほどナギは愚かではない。

「私は、12の時に母の手で塔に幽閉されました。あの方にお逢いしたのはもっと前のことになります」
 ナギにとって、それはもうずいぶん遠い記憶だ。
 まだ、自分が、少女だと疑ってもいなかった頃。
 金髪碧眼の王族の中に、奴隷としてではなく存在を許された黒髪と黒い瞳の少年は、否応なしに目についた。
「そんな子供の頃じゃ、あいつだってガキだろう?」
「でも、わかります。特別な方でしたから……」
「特別だと…?」
 蘭月は声を潜め、ナギの言葉を遮った。

『特別な方……』
 そんなふうに呼ばれる男が〈南〉に何人いるだろう?

 蘭月はその場にしゃがみ込み、長い溜息をつく。
「蘭月様……?」
 と、訝るナギを静かに睨みつける。
「一つだけ答えろ。一つだけでいい」
「はい……」
「そうならば頷け。違うなら何もするな。わかったな」
 命じられて、ナギは身構えた。

「あれは、天帝の血筋か?」
 そして、蘭月は、サボテンの棘のように心に突き刺さったままジクジクと疼き続けていた疑問を口にしたのだ。

 ナギは声を出さずに、小さく頷いた。

「……なんてこった…!」
 その瞬間、〈北〉でもっとも優雅な男娼、驚きを知らぬ男と言われた蘭月が、思わず額に手を当てた。
 やはり、自分の想像が当たっていたのだ。
 氷雨は、今は亡き〈南〉の天帝、ギリアン・雷鳴の子。
 まさに〈南〉の王家の直系なのだ!

「では、まさか、お前も…?」
 ふと思い立ち、蘭月はナギを睨みつける。
 ナギはゆっくりと首を横に振り、静かに呟いた。
「私は、母が天帝を欺いてこの世に産み出した罪の子です」
「幽閉されてたってのは、そのせいか?」
「はい…」
「母にも父にも恵まれなかったな」
「…………」
 ナギは何も語らず、静かに俯くだけ。
 今さらそんなことを恨んでみても、詮無いだけだ。
 だが、蘭月は同情などしない。
〈北〉で同情を欲しがる者など、生きていく価値がない。
 誰もが何かしらのキズを抱え、みっともなく這いずり回りながら、それでも必死に生にしがみついているのだ。
 煌めく金髪を翻し、蘭月は立ち上がる。
「俺は何も聞かなかった。お前も命が惜しくば、あの男のことは決して口にするな」
 そう言い捨てて、さっさと天幕を後にした。
 
(氷雨が、ギリアンの落とし種……)
 察していたこととはいえ、事実を知った衝撃は大きい。
 氷雨が一介の奴隷にすぎないなら、〈南〉に恨みこそ抱いていても恩義など感じるはずもなく。奴隷を解放するために〈北〉に組みして戦おうとするのは理にかなっている。
 だが、王家の人間であれば事情が違う。
 黒髪と黒い瞳を持って生まれたがゆえに、王子の座を追われこそすれ特別な待遇を与えられていたとしたら……。
 氷雨にとって〈南〉は故郷であるだけでなく、愛する者のいる場所なのだ。
 だが、氷雨は確かにルイに票を投じた。
〈南〉との戦いを前面に打ち出している好戦的なルイに。

 本当に…?
 本当にそこまで故郷を捨てきれるものか?
 愛する者達への情を切り捨てられるものか?
 蘭月の中に〈西〉への郷愁が消えぬように、黙したまま南の空を仰ぐ氷雨の目にも常に変わらぬ深い敬愛の情が見える。
 それは決して気のせいなどではない。
 氷雨は〈南〉に心を残している。
 もっとも愛する者が、そこにいるのだ。
 そんな男を参謀にして〈南〉と戦うだと?
 信じていいものか、あの男を?
〈黒〉の長老が、己の知恵のすべてを授け、文字通り命を懸けて鍛え上げてきた、〈北〉でもっともすぐれた戦術家。
 砂漠一の戦士〈ハヤブサ〉の伊佐を魅了し、また、後込みさせた唯一の男。
 語らぬ口の下にどんな策謀を隠しているのかもわからぬ男を?

「裏切るなよ……!」

 蘭月の唇から漏れた呟きは、誰の耳にも届かぬまま、砂漠から吹き寄せる熱波にさらわれていった。

    ◆◆◆

 堅苦しい族長会議を終え、一時の解放感を味わうため、ルイは中庭に足を向けた。
 シュロの木に囲まれて、オアシスから湧き出る泉の水を引いた贅沢な池が設えられている。
 その端に、先客が一人。
 黒い瞳は、静かに泉を見つめている。
 族長会議に出席しながら、それぞれが自らの部族の利益を優先して意見を戦わせている中、欲がないのか、それともただ口を開くのが面倒なだけなのか、常に静観の構えを崩さなかった男。
 言うまでもない、氷雨だ。

 ルイの気配などとうに気づいているはずなのに、振り返りもしない。
(相も変わらず憎たらしいヤツだ〜)
 ドスドスと足音荒く歩み寄り、ルイは、ゆったりと腰掛けた男の背に問いかける。
「何を見ていた?」
「…………」
「また、だんまりか」
「…………」
「伊佐は、お前が怖くて〈北〉に攻め込めんと言っていた。砂漠との国境はしっかり守ってくれていたらしいな」
「…………」
「だが、守るのは自分の部族だけか? 本当に〈北〉を守る気がお前にあるのか?」
 何を問うても、答えなど返す男ではない。
 それがわかっているのに声をかけずにはいられないのは、自分が王に選ばれた者だからだ。
〈北〉で、唯一、無視されてはいけない人間だから。
 なのに、氷雨は、王であろうと物乞いであろうと等しく無視する。
「こっちを向け」
 ルイは氷雨の頤をつかみ、強引に自分の方を向けさせる。
 どうあっても、王たる自分の姿を氷雨の視界に入れなければ気がすまないようだ。
 我が儘というより子供なのだ。

「お前と同じ目をしていた人間を、俺は知ってる。俺の母だ。お前と同じ目で〈南〉の空ばかり追っていた」
 ルイは、夜の闇より暗い氷雨の目を覗き込んだ。
 なんの感情も見えない。
 どんな想いも表さない。
 伊佐と同じ色なのに、情熱の炎を絶やさぬ伊佐のそれとは何故こうも違うのか?
「口は塞げても視線は消せんぞ」
 荒々しく言い放ち、情愛の欠片もない口づけで氷雨の唇を奪う。
 それでも、氷雨は表情一つ変えはしない。
 ルイのこの程度の横暴は、今に始まったことじゃない。
「つまらん」
 その徹頭徹尾一貫した無関心を前にして、さしものルイも業を煮やして言い捨てる。
「お前の心は俺以外のものでいっぱいだな」
「…………」
「それでも、お前が俺に票を入れてくれたことには変わりない。言質を取れば、お前は裏切らんだろう」
「…………」
「ところで」
 と、ルイは突然話を変えた。

「パブロ・天羽は天使のように美しい少年だと聞く」

 いきなり〈南〉の少年王の名を聞かされても、氷雨は顔色一つ変えない。
「本当か?」
 氷雨は、微かに頷いた。
「姿だけでなく、心までも天使だと」
 それには何も返さず、ただ目を閉じる。
「天使を殺したら、俺は悪魔だな」
 ククッと、ルイはしばし楽しげに笑っていたが、やがて池の端に腰を下ろし氷雨の膝に頭を乗せた。
「しばらく膝枕をしてくれ。俺は寝る」
 そのままスーッと寝息を立ててしまった。
 心にルイ以外の王を棲まわせている氷雨の膝の上で。

〈黒の一族〉は、常に仕込みナイフを隠し持っている。
 今、氷雨がその気になれば、ルイの寝首をかくかことなど造作もないことだろう。
 それでも、ルイに恐れはない。
 氷雨は〈南〉を知り尽くしている男。
 やがてくる戦いの時に、どうしても必要な男。
 だから、すべてを見せる。
 一番無防備な姿をさらし、その心を推し量る。
 それで首の一つもかっ切られるなら、己の運命もその程度のものだということだ。
 信じるのは、王として生まれた自分。
 世界を変えるために選ばれたという自負。
 まだ死なぬ!
 死ぬ運命ではない!

 何の根拠もなく、だが、そう信じて疑わぬ傲慢な男は、存外に心地よい氷雨の膝の感触をいつまでも味わっていた。


        to be continued