第三章 第三回


 言葉もなく見つめ合う、ナギと氷雨の様子を、伊佐は苦虫を噛み潰したような顔で睨みつけていた。

 自分の惚れている男が、自分の仇である少年と、言葉も交わさず何かを通じ合わせているような雰囲気をかもし出しているのを見て、楽しいはずがない。
「こいつが気に入ったのか?」
 と、いつまでもナギに見入っている氷雨に、伊佐が忌々しげに問いかける。
「俺は、気に入らない。お前の興味を引
いてるってだけで、左目の傷が疼いてくる」
 伊佐は乱暴にナギの手を取り、天幕の中に放り込むと、氷雨を振り返り、ニヤと笑った。
「たまには貸してやってもいいぞ。俺の想いに応えてくれるならなら」
 そんな取引まがいの条件に、色好い返事をする氷雨ではない。
 わかっているが、それでも、つれない男に少々の意趣返しをしたくなるのはいたしかたないこと。

「お前の気に入りなら、それだけで虐める理由ができたってもんだ」
 そう言い捨てて、伊佐は天幕の中へと消えていった。

 自分の行為が、ナギにさらに過酷な運命を与えてしまったと気づいた氷雨だったが、今さら後の祭りだ。
〈北〉に流れてきて6年。
 未だこの地の男達の気性を理解しきれていない氷雨は、ナギの中に懐かしさを覚えてしまったことで、どうしようもなく自分が〈南〉の人間だと思い知らされてしまった。
 まだ忘れていない。
 まだ消えていない。
 傍目には、お綺麗で慈悲深い、その実、もっとも残酷な運命しか用意してくれなかった故郷の人々への想いが……。
 恨みもある。
 憎しみある。
 それこそ、死して後も忘れられぬほど――!
 だが…、あそこには、心優しき少年がいる。

『生きていてください、必ず……!』

 その少年の言葉は、今も氷雨の心を捉えて放さない。
 ルイが〈北〉の王座に就いた今、自ら票を投じた責任を考えれば、切り捨てねばならぬ想いなのに。

 氷雨は伊佐の天幕を振り返り、ナギのこれからに一瞬思いを馳せはしたものの、結局、何も語らぬままその場を後にした。
 ルイが伊佐にナギを与えた以上、それは誰にも覆すことのできぬ決定なのだ。そういう男を、〈北〉は、〈砂漠の民〉は、そして自分は選んだのだから……。
 何にも屈することなき強靱な意志を持った男を――!

       ◆◆◆

 さて、伊佐とナギは、一つ天幕の中で、さながら蛇と蛙のように対峙していた。
 二人に相容れる部分は一つもないと、ルイは思っていたが、実際には一つだけあるのだ。
 ルイを愛しているという、もっとも感情的な部分で、二人は同じ想いを抱いていた。
 もっとも、あの傲慢極まりない褐色の王にとっては、自分が愛されるのはしごく当たり前のことだから、それが、あえて二人を結びつけるものだとは思ってもいなかったのだが――…。

 ともあれ、大ボケのルイは気づけなかったが、伊佐に感情移入できる部分があったことは、ナギにとって幸運だったのか? 不幸だったのか?
 ルイと睦み合う伊佐の姿を見た時から、ナギの胸の内にくすぶり始めていた感情は、今、自分をキズつける者として眼前に立ちはだかる男を見ても強まるばかりだった。

(こんな男でありたかった……)
 と、熱く胸焦がす憧憬。

 愛する者を、気持ちだけでなく、知恵だけでなく、力で守れる男!
 それこそが女として育てられ、だが、男として生きねばならぬ運命を背負ってしまったナギにとって、理想とする男の姿だった。
 強く、逞しく、猛々しく!
 だが、心では常に愛する者に額き、永遠の誓いを立てる。
 そんな伊佐の献身は、支配者たる運命を与えられたルイより、よほどナギの理想に近かったのだ。
 その男の左目を、間接的にではあっても自分は奪ってしまった。
 ならば、どんな扱いをされようと、自らの蒔いた種だ。
 甘んじて受けるしかない。
 辛いことの方が多い人生だった。
 一つや二つ、それが増えたからと言って、嘆くことなどない。
 天使のごとき、パブロ・天羽に出逢えた。
 獅子のごとき、ルイ・八束に出逢えた。

 それだけでもう十分だ――…。

       ◆◆◆

 その夜から、伊佐の陵辱が始まった。
 加えられる虐待は、つらくはなかった。
 肌を切り裂く鞭の痛みも、肉を裂く恥辱の行為も、それは自らの罪をあがなうためであったから。
 辛かったのは、時折、何の気まぐれか、伊佐が見せる優しさだった。
 伊佐の指が、唇が、舌が、永遠の恋人に向けるかのように、甘やかに、焦らず、寝もやらず、長い夜をかけてナギの身体を愛撫する。
 もはやどれほど望んでもかなわぬ、女としての悦びを与えるかのように。
 そうして、愛された朝には、決まって伊佐の胸の中で目が覚める。
 自分を抱き、微睡む男の姿を見ながら、その瞳が開かれた時のことを不安の中で思う。
 優しい伊佐であろうか?
 それとも冷酷な伊佐であろうかと。
 暴君の恋人の目覚めを持つ少女のように震える。

 ――10日ほどたった、ある朝。
 目覚めた伊佐は、己が腕の中で微かに頬を染め震えるナギを、愛しげに眺めやった。
「……何故…?」
 と、ナギは震える声で問う?
「何がだ?」
「何故、そんなふうに私をごらんになるのですか?」
「俺のものをどんなふうに見ようが、俺の勝手だ」
 傲慢な物言いいとは裏腹に、視線はあくまで優しい。
 ナギの細首など一捻りにできる力を持った逞しい腕は、だが、意外なほど繊細にナギを抱き寄せ、口づける。
 その頬に、額に、唇に、幾度も幾度も繰り返し……。
「…ああ……」
 いつになく激しく怯え喘いだナギは、伊佐を愛しいと感じている己の心に気づいた。
 自分を憎むこの男を。
 自分を傷つけるこの男を。
 自分を決して許しはしない、愛しはしないだろうこの男を。
 褐色の王に捧げたはずの心の内に、いつしか住まわせてしまっていたのだ。
『俺のもの』
 という言葉にさえ、奴隷としてではなく、恋人として所有されているかのような錯覚を覚え、我知らずナギは喜びに心躍らせてしまう。

 それが伊佐の残酷な復讐とも知らずに――…。

       ◆◆◆

 族長会議の間、伊佐は当然だが天幕を留守にした。
 その間はナギを拘束することはなく、このオアシス都市〈緑の聖地〉の中を自由に出歩くことを許していた。
 どうせ周りは砂だらけ。〈南〉育ちのナギに、逃げる術などあるはずもないのだからと。
 だが、ナギが自らの意志で外に出ることはなかった。
 長の幽閉の経験ゆえか、砂漠の眩しい太陽の下に出るより、薄暗い天幕にこもっている方が心穏やかでいられるのだ。
 それに自分は伊佐の奴隷なのだから。
 と、律儀にも思っていた。
 
 ――そんな時、伊佐の天幕に意外な人物が顔を出した。
 顔は見知ってはいたが、直接言葉を交わしたこともないのに、その男はいきなり下世話な話をしながら入ってきた。
「ヤッホー。腰は大丈夫? 壊れてないー?」
 腰まで流れ落ちる髪は、太陽の金。
 瞳は鮮やかな湖の色。
 蘭月だった。

「ルイに頼まれて薬を持ってきた。アソコが切れた時には、よく効くからね」
 差し出された薬袋を、真っ赤になって受け取りながら、それでもナギは礼とともに答えを返す。
「お気遣いありがとうございます。でも、私は医師ですから、それなりに薬は持っております」
「ああ、でも、シモのことに関しては、俺の方が詳しいと思うぜ。なにせご商売だからー。そいつには少々の媚薬も混じってるから、痛みが和らぐだけじゃなく楽しみも増えるってことでー」
「……………………」
 だが、楽しんでしまっては、伊佐の復讐にならないのでは?
 と、思いがするが、なんだかこの男相手に言い返しても無駄のような気がして、ナギは話題を逸らした。

「族長会議には、出席なさらないのですか?」
「俺は族長じゃない。相談役にはなるけど、族長達の決めごとの場には同席しない。あ、自己紹介がまだだっけ。蘭月だ」
「蘭月様…?」
 その名に、ふと何か引っかかりを感じて、ナギは考え込んだ。
「何か?」
「いいえ…。何でもございません。蘭月様は、どんなお立場の方なのですか?」
「だから、言っただろう。シモのことに関して詳しいご商売。男娼ってヤツです」
「………は…?」
「ついでに、時々ルイの教育係をやってるけどね」
 男娼が、王の教育係?
 そんなアンバランスなことが許されるのが〈北〉なのだ。

「お前がルイの傷を治してくれたって? 今さらだけど、礼を言っておくぜ。お前がいなかったら、俺達は王を失っていた」
「いいえ…」
 と、ナギは首を横に振る。
「あの方の生命力が、毒に打ち勝ったのです。私はその手助けをしただけです」
「いや。砂漠の部族が使う毒は、そんな生半可な代物じゃない。いくらルイでも手当てが遅れればくたばってた」
「…………」
「ある意味、一番の功労者が、とんだ褒美をもらったものだな」
 蘭月は濡れたような紅の唇に、憐憫の混じった苦笑を浮かべる。
「罪は罪でございます」
 だか、返ってくる声音に怯えの色はない。
 過酷な運命をすべて受け入れ、ただ静かにそこにいる少年に、蘭月は同情した自分を恥じた。

(そうか、〈南〉にも、ちっとはマシな男がいるもんだ)
 口には出さぬが、心で思う。

「素直な子は好きだぜ。伊佐のような無頼漢の遊び道具にさせておくのはもったいないな」
 ナギのおとがいを持ち上げ、その顔をしげしげと見やる。
「………いいえ…」
 静謐な瞳は、まだ17歳の少年とは思えぬ悟りの色に満ちている。
「私は、多くの罪を犯しました」
「この国は犯罪者だらけだよ。過去を捨てた流刑人が作った国だ。お前を責められる者などいるもんか」
「……………」
「だいたい、奴隷なんて制度は〈北〉にはない。伊佐がそれを言い出したのは、〈南〉出身のお前に対するイヤミでしかない」

 伊佐の左目が〈南〉に捕らえられていた時に潰されたことは、誰もが知っている。
 当然、その加害者であるナギが〈南〉の者だということは、もう誰にも知れ渡っていた。
 ナギは、しばし蘭月の顔を見つめていた。
「何? 見惚れるほどイイ男?」
 ナギは、微笑み、そして頷いた。
「不躾な視線をお許し下さい。確かに、圧倒されるほどのお美しさであらせられます。ただ、どこかでお逢いしたような気がいたしましたので」
 一目見た瞬間から、この美貌の青年が、ただならぬ者であるということはわかっていた。
 その面差しには、〈西〉の王族の特徴が色濃く現れていた。
 だが、それをあえて問いはしない。
「きっと、夢の中ででも、お逢いしたのでしょう」
 と、誤魔化す術も、氷雨に出逢ったことで学んだ。
〈北〉には氏素性を知られたくない者が、あまたいるのだ。
 過去を捨て、故郷を捨て、もう他では生きられなくなった者達の集まる場所。
 そこ以外には、どこにも行き場がないから、〈北〉の男達は、羨ましいほどに逞しく必死に生きているのだろう。

「俺は〈西〉の出だよ」
 だが、蘭下は、意外にも自らの故郷を告げた。
「10年前、〈西〉から逃げてくる途中、守弥に拾われた」
 それくらいは今さら隠さずとも、誰もが知っていることだから。
「10年前…? 政変があった年ですね。あの頃は〈西〉から多くの者が〈北〉へ逃げたと聞きおよんでいます」
「お前は物知りなようだ。だが、言っておく。俺の顔をどこかで見たような気がしても、それはお前の胸の中だけに収めておけばいいことだ。でないと命の保証はしかねるよ」
「――――!」
 脅し文句を突きつけられて、ようやくナギは、自分がよけいな一言を言ってしまったことに気がついた。
「人の過去を詮索するのは、お行儀のいい子のすることじゃない」
「………………」
 そんなつもりはなかったのに、いつの間にか一番触れてはいけない部分に、うっかり踏み込んでいたのだ。
 ナギは戸惑い、目をさまよわせる。
「それから、もう一人、過去を詮索しちゃいけない男がいる」
 黙したままのナギに、蘭月はさらに言い募ってくる。
「黒い髪と黒い瞳の寡黙な男のことは、もしも心当たりがあっても、決して口にするな」
 それが誰を指しているのかは、すぐにわかった。
「……はい」
 と、ナギは頷いた。
「今度は即答だな」
 からかうように言った蘭月だったが、次にナギの口から出た言葉に、心底驚かされた。

「あの方には…、お逢いしたことがありますから」

 その言葉に、〈北〉でもっとも高慢で恐れを知らぬ男娼と呼ばれた蘭月の顔が、スウッと青ざめた。

        to be continued