第三章 第二回


 「他には何もいらん。ナギをくれ!」
 と、伊佐は再び言った。

 ルイは黙したまま、視線を部屋の隅に巡らせる。
 ナギは床に伏したまま、寝入っていた。
 一晩中、ルイと伊佐の愛の行為を見せつけられ、朝まだき、気を失うように眠ってしまったナギの顔には、疲労の色がありありと見て取れる。
 それも当然。
 3晩に渡って寝もやらず、ルイを看病し。
 あげく、助けてやった、当のルイに強引に身体を奪われ。
 初めての砂漠を馬で渡り、ようやくこのオアシス都市に着くまでに、すでに身も心も疲弊しきっていたはず。
 そこにきて、自分を仇と狙う伊佐との再会とあっては、心穏やかでいられるはずもない。
 
 その身を哀れと思う一方で、ルイは、伊佐のことを思う。
 伊佐の潰された左目のことを。
 仇を目の前にした以上、何もするなというのは無理というものだ。
「わかった、ナギをくれてやる」
「まことか?」
「だが、殺すなよ。忘れるな、あれは俺を助けてくれた者だ」
「……わかっている」
 愛する王。
 褐色の恋人。
 今となっては、自らの命より大切な夢。
 そのルイを救ってくれたことに免じて、命だけは助けてやるつもりではいた。

「ナギには医師としての勤めを与える。だから、お前のものになるのは夜だけだ。殺すことも、キズつけることもあいならん。昼間、勤めが果たせぬようなことはするな」
 それがルイの返事だった。
 だが、伊佐は、納得に頷いた。
「それで十分」
 伊佐はルイの右手を取り、感謝の口づけをしながら、その心の内で秘かに思う。

(殺しはしない! だが、こうなったら、生かして、死ぬより辛い目にあわせてやらねば気がすまん!)

 残された黒真珠の目に宿る復讐と憎悪の色に、ルイは気づいていたが、あえていさめることはしなかった。
 仲間を殺された〈砂漠の民〉は生涯復讐を忘れぬことを、同じように恨みを受けた者として、ルイもまたよく心得ていたからだ。
 伊佐の信頼を勝ち得るために、ルイは自分のすべてを伊佐にさらけ出し、同じ思いを持っているのだと、一つの目的を持っているのだと、説得し続けた。
 そしてついに、伊佐の気持ちを手に入れたが。
 それは、ルイと伊佐の間に憎しみを凌駕するほどの望みがあり、さらに、必ずや伊佐を自分の方に向かせてみせるとの尊大なまでの自信があったればこそ、成し得たことなのだ。
 だが、ナギには伊佐の気持ちを変える力もなければ、また、そんな気もないだろう。
 諾々と、伊佐の怒りを受け入れることしかできまい。

(辛い日々が始まるな……)
 と、ナギに同情はしても、庇いはしない。
 それはまた、ナギがしてきたことに対する当然の報いでもあるのだから。

       ◆◆◆

 ルイは、目覚めたナギに、残酷な命を下した。
「お前は、今から伊佐のものになる」
 と、背後に薄ら笑いを浮かべた伊佐を従え、驚きの表情さえ隠せぬナギに向かって、淡々と自らの決定を下す。
「しばらく、この地で族長会議は続く。その間、お前は伊佐の寝所に控えていろ。伊佐の命令が俺の命令だと思え」
「…………」
「むろん〈北〉に帰る時には、お前も連れ帰る。医師としての仕事をしてもらうが、伊佐が〈北〉に来た時には、お前は伊佐のものになる」
「……………………」
「それが伊佐への褒美だ。だが、殺すなとは言ってある」
 ナギには言葉がない。
 答える力もない。
 自分が伊佐の左目を潰した張本人である以上、ルイの命を救ったことを差し引いても、何らかの処罰が下されることは覚悟していた。
 だが、まさかそういう形になるとは思ってもいなかった。

「…………わかりました…」
 ようやく小さくそれだけ答えると、ナギは伊佐を見上げた。
 そこに、憎悪と歓喜に輝く、ただ一つの黒い瞳がある。
 ――幽閉された塔の中。
 自らの狂気が蒔いた種。
 半日以上も胸を掻きむしりながら死んでいった男の、苦痛と恐怖と絶望に歪んだ顔は、今だ瞼の裏に焼きついて消えぬ。
 今度は自分がその目にあうのだ。
 生きながらジワジワと殺されていくのだ。
 自業自得とはまさにこのこと――…。
 
「どうぞ御随に」
 頭を床に擦りつけるようにして額づくと、今日から自分の主人になった男に、深々と忠誠を誓った。

 伊佐に付き従いルイの部屋を辞する時、ナギは後ろ髪を引かれるように振り返った。
 これから自分を襲うであろう責め苦への恐怖より、ルイと引き離される悲しさが、深く心を切り裂いていく。

(愛しい王よ。その褐色の胸に再び抱かれることはないのだろうか?)

 それはナギの初恋だった。
 少女として恋し。
 少年として焦がれた。
 自ら望んで、心と身体を重ねた初めての相手だった。
 だが、伊佐のものとされた以上、二度とルイに抱かれることはないだろう。

「グズグズするな!」
 伊佐の叱責に、我に返ったナギは、うなだれたまま足を速めた。
「ルイが恋しいか?」
 と、伊佐の背中が問う。
 だが、答える言葉など、ナギにはない。
「答えたくなければそれでもいい。どうせもう、お前がルイに触れることなどないのだ」
 ゆっくりと伊佐は振り返り、自らの立場を誇示するように、伊佐は傲然と言った。
「あれは俺の王だ。俺が導き、一つ夢を追う、俺の王だ! 貴様のものにはならん!」
「……………………」
 その通りだ。
 ナギには何の力もない。
 ルイの命を救ったことさえ、自らの手柄ではない。ルイの強い生命力があってのこと。
 この地において、戦う力を持たぬ者は何の役にも立たないのだと、すでにイヤと言うほど思い知らされた。
 彼らは〈南〉に攻め入るのだ。
 ナギが敬愛するパブロ・天羽の首を取るために、この男達は一丸となって進む道を選んだのだ。

 なのに、今のナギには自ら運命を選ぶことさえできない。
 自分を幽閉の身から解放してくれた、パブロ・天羽を助けることも。
 初めて恋した褐色の王、ルイ・八束に仕えることも。
 望んだことは何もかなわず、ただ自分を引き立てていく男に従うことしかできない。
 ――罪の贖い――…。
 それだけが、唯一残された道なのだ――…。


〈緑の聖地〉が砂漠へと変わるあたりに、〈砂漠の民〉特有の天幕が並んでいる。
 その中でも、一際大きく威光を誇る伊佐の天幕の前に、誰かを待ち受けるかのように佇んでいる男がいた。
「氷雨……」
 と、伊佐は驚きとともに呼びかけた。
〈黒〉の族長、〈北〉でもっとも寡黙な男、そして、伊佐の想い人でもある氷雨だった。
「どういう風の吹き回しだ? わざわざお前が、俺の天幕に足を運んでくるとは?」
 普段なら嬉しいはずの氷雨の訪問は、だが、ナギを引っ立てている姿を見らては、手放しで喜べるものではない。
 それも、いかにも何か一物含んでいるような氷雨の視線が、か細いナギの腕を掴む伊佐の手に注がれているとあっては――…。
 自分がナギを仇と狙ったこと、さらに、復讐のために奴隷としてルイに所望したことなど、氷雨にはお見通しだろう。
 それは、〈砂漠の民〉としては、当たり前のことなのだが…。
(氷雨はマズイ…)
 誰もあえて口には出さないが、氷雨が〈南〉からの逃亡奴隷だろうということは、周知の事実だ。
 その氷雨に、自分が奴隷を引っ立てている姿を見られるのは、少々、いや、大いにマズイ。

「こいつは、俺がもらったんだ。砂漠をまとめた褒美だ。文句を言われる筋合いはないぞ」
 と、気まずげにナギの腕を放し、問われてもいないのに自ら言い訳をしてしまうあたり、氷雨に頭の上がらない証拠だ。
「……………………」
 むろん、氷雨は何も語らない。
 視線一つで、伊佐を萎縮させただけだ。

 氷雨の目的は、伊佐ではなくナギの方だった。
 ルイに連れられて来たナギの姿を遠目に見た時から、妙に胸がざわめいていたのだ。
 その顔をしげしげと見やり、記憶の引き出しを掻き回す。
 目の前にいるのは確かに少年なのに、どこかで、その面差しを宿した少女に出逢っているような気がした。
 昔……、今はもう語ることさえできない、失われた日々。
 それが偽りの生活だとも知らず、奴隷に落とされてもしかたない身に教育を施してくれた叔父に感謝し、自らの幸運に安堵していたあの頃、ほんの数回出逢った少女によく似ている。
 それは、氷雨が決して口にはできぬ父の愛妾の、娘だった。
 ある意味、母親は違えど氷雨と同じ立場の……、むろん、黒い髪、黒い瞳に生まれてしまった自分とは、天地が逆さになろうが同じ立場などと言えるはずもないのだが。
 一度は心で『妹』と呼んだ少女を、たとえどれほど姿形が変われど、見忘れるはずはない。

 氷雨は手を伸ばし、ナギの髪に触れた。
「…………」
 その感触を、やはり覚えているような気がした。
 そして、ナギもまた、黙したまま氷雨を見上げる。
 幼かりし日、まだ自分が渚という名の少女だと信じていた頃、出逢った人はそう多くはなかった。
 母のオルガは、ナギ……、いや、渚の性別を隠し通すために、必要以上には外部の人間と接触させないようにしていたのだ。
 それでも、王家の人間達はオルガの占を頼りにし、頻繁に屋敷に出入りしていた。
 その中でも、もっとも印象深い少年を、忘れるはずなどない。ギリアン・雷鳴を父にしながら、黒髪と黒い瞳をもって生まれたがため、奴隷に落とされた少年。

『兄上……』
 唇だけで、ナギはそう呼びかける。

 自分が、亡きギリアン・雷鳴の種ではないとわかった今、その呼び方は不遜ですらあるが。
 母が違うだけでなく、父もまた違うのだ。赤の他人でしかない。
 だが、それ以前に、懐かしい知り人として、思い出語りをすることもできないのだ。
 彼は〈北〉にいる以上、過去は捨てたのだから。
 奴隷の身から逃れ、ギリアン・雷鳴の血も捨て、誰とも関わり合いのない一個の人間として生きるために、彼はこの地に来たのだから。

 声なきナギの呼びかけは、だが、涙に潤んだ瞳によって、しっかりと氷雨の心にも届いていた。
(では、やはり、あの少女がこの少年なのだ)
 と、氷雨は心で思う。
 だが、ギリアン・雷鳴の愛妾の子供でありながら、その性別を偽っていたとなれば、それは許されざる大罪のはず。
 この〈北〉の地で、こんな形で再会したのは、彼もまたやはり幸せとはほど遠い運命を歩んできたという証だろう。
 伊佐の目を潰したと聞いた時も、耳を疑った。
 多くの奴隷を人体実験にしてきたなどと、さらに信じがたい。
 優しい、可愛らしい、姫だったのに――…。

 これは何かの始まりなのか?
 ともに亡きギリアン・雷鳴に関わりのある二人が、時を超え、砂漠を越え、ここで出逢ったことには、何か意味があるのか?

 だが、まだ運命の輪は回り始めたばかり。
 その先にどんな出来事が待っているのか、まだ二人、知るよしもなかった。

        to be continued