第二章 第十回



 岩陰の草むらで、二つの身体が絡み合っている。

 強い男は好きだ。
 逞しい男は好きだ。
 信念に燃えた男は好きだ。
 その証を味わうのは、何より好きだ!
 まるで愛しい恋人にでもするように絡みついてくる舌が、嘘偽りないルイの想いを伝えてくる。

(なんでこんなことをさせてるんだ、俺は〜?)
 伊佐自身、ルイの勝手にさせている自分を不思議に思いはするが、結局〈砂漠の民〉とか〈北〉とか関係なしに、男とは欲望に忠実なものなのだ。

(熱い…! この男は、なんて熱いんだ!)
 砂漠で生きてきた自分より、さらに熱い男がいるなんて。
 だが、それ以上に驚くべきことは、今は休戦しているものの、宿敵であるはずの伊佐の男の証を、王位継承候補という立場にありながら、平気で咥えているってことだ。
 その上、剣は無防備に草原の上に投げ出されている。
 手を伸ばせばつかめるほど、間近に。
 煮え湯を呑まされ続けてきた数々の戦いが頭をよぎる。
 ドクドクと高鳴る鼓動は、欲情からなのか、殺意からなのか。
(今らな、ルイを討てる――…!)
 仲間の仇が討てる。
〈北〉の守りの要を崩せる。
 過去の汚点が清算できる。
 ……だが。
 殺すには、あまりに惜しい!
 何度も剣を横目で見やりながら、だが、徐々に熱を帯びる愛撫に戸惑い、やがて官能がすべての感情を凌駕し、欲望のほとばしりを放つその瞬間がきても、ついに伊佐はルイを討つことができなかった。

「城に帰ったら、お前、氷雨に何と言い訳する?」
 氷雨に惚れている伊佐をからかうように、今し方までの行為でたっぷりとつけた鬱血の痕に舌先で触れながら、ルイがニヤと笑う。
「残念ながら、俺と氷雨はそんな関係じゃない」
「惚れている男が待っているのに、そんな痕をつけて平気でいられるヤツの気がしれんな」
「恨んでいる相手のモノを咥えられる男の方が、信じられん」
 イヤミたっぷり返したつもりだったのに、ルイは、何のことだと言わんばかりにキョトンと伊佐を見やる。
「なんだ、お前、俺を恨んでたのか?」
「俺だけじゃない。お前もだろう」
「俺が? どうして?」
「お前の領地を何度も襲った」
「戦場での恨み言をぶつけ合っていたら、どこまでたっても何も変わらん。戦いの遺恨を他の場に持ち込むほど、俺はヒマじゃない」
「ヒマかどうかで決めることか?」
「そうだ。恨み続けるにはエネルギーがいる。俺は、楽しいことが好きなんでな」
「それは、そうだろうな」
 伊佐は、今、自らの身体でたっぷりと味わったことを思い出す。
 変わった男だ。
 度量が大きいのか、ただの好き者か?
 どちらにしても、今まで逢ったことのないタイプには違いない。

「では、何故〈南〉を攻める? それは恨みからじゃないのか?」
 伊佐の問いに、ルイは間髪入れず答えた。
「俺は〈南〉を攻める。だが、滅ぼしはしない」
「何…?」
「罪は、飾り物の王族と、それを操る評議員達。そして家柄を盾にヌクヌクと栄華を貪る貴族どもにある。一般の市民は〈南〉といえど、誰もが裕福に暮らしているわけではない」
「だが、あの国に飢えはない」
「それを市民のせいにはできん。民は殺さない。貴族からはすべてを奪う。あとは〈南〉が屈した証拠が一つだけあればいい」
「証拠とは?」
「むろん、パブロ・天羽の首よ」
 その一瞬、ルイの内側に隠されていた鬼神の顔が現れた。
 伊佐は、ゴクリと息を呑んだ。

『パブロ・天羽の首』
 誰もが考えながら、誰も口にしなかったその一言。

「天羽は…、天使のような少年王だと聞くぞ」
「らしいな。天帝ギリアンの悪政を正すために、評議員達を説き伏せながら、民のための政治をしようとしている、〈南〉に残された最後の良心のような王だと」
「その首を狙うか?」
「〈南〉の王族は短命だ。パブロ・天羽も病弱だ。ウワサに違わぬ名君なら、最後にすべきことはわかっているはずだ」
「自ら命を差し出すと? 大国〈南〉をそこまで追い詰められると、お前は自信を持って言えるのか?」
「連中は栄華にうつつを抜かしすぎた。ギリアンの代に主立った戦士は皆死んだ。それに……」
 と、ルイは、遙かに続く砂丘を見やる。
「〈南〉の誰も、まさか我らがこの砂漠を越えて攻め入ってくるとは思っていまい」
 そこは人の進入を拒む土地だ。
 兵を率いて砂漠を越えることができれば、それだけで神の眼鏡にかなったことになる。
「それには〈砂漠の民〉だけが知っている道が必要だ。〈南〉に知られず進軍できる、商人すら知らぬ道がな」
「……フン…」
「お前がそれを示せ。俺は先頭に立って軍を率いて、その道を行く」
「まだ…、お前を信じきれん」
「すぐにとは言わん。理解し合う時間はいくらでもある。俺は気が短いわけじゃない」
「手は早いな」
「欲望に忠実なだけだ。お前は違うのか?
「…………」
「俺が欲しくないか?」
 重ねて問われれば、伊佐だって違うとは言い切れない。
 楽しいことは嫌いじゃない。
 強い男も嫌いじゃない。
 妻の花梨が死んでから、罪悪感のせいか、とんとその気にならなかったとはいえ、ルイほど魅力的な男を前にすれば、やはり食指は動くというものだ。

「俺は…、まだ妻の喪に服している」
 だが、少々の言い訳は忘れないが。
「砂漠は一夫一妻だったな。愛していたか?」
「愛していたさ。俺の最初で最後の女だ」
「そうか。では、お前は幸運だった」
「妻を失ったのに?」
「〈北〉で愛する女と結婚できる男など、数えるほどしかいない」
「3人も妻のいる男に言われても、説得力がないな」
「望まれて妻にはしたが、一番愛した女じゃない」
「お前が、惚れた女に望まれなかったと?」
「〈北〉の女じゃなかったからな」
「え…?」
 ゆっくりとルイは全裸のまま立ち上がり、岩場の向こうを指さした。
「あそこにいた」
「砂漠か?」
「その向こうだ――…!」
「まさか……〈南〉…?」
 ルイは小さく頷いた。
 もはや逢うこともかなわぬ少女の面影を求め、〈南〉に続く空を見やる。
 その記憶は、幻のように儚く、時々夢のようにも思えるが。
 それでも、あれは現実のことだった――…。

「13の時、俺は砂漠を一人で渡ったことがある」
「何?」
「守弥からもらった地図だけを頼りに。オアシスづたいに〈南〉まで歩いた。それで死ぬなら、そこまでだとも思っていたしな」
「行きついたのか…?」
「ああ。だから、今、ここにいる」
 ルイの銀灰の目が、鋭く南の空を仰ぐ。
 そこでの体験を、ルイは誰にも話したことはなかった。
「肌の色のせいで奴隷と間違われたのか、憲兵に追われてな。逃げ込んだ先は、尼僧の住まう神殿だった」
 それを伊佐に打ち明けるのは、信頼の証だ。
「俺は、そこで〈南〉の真の姿を見た」
 そしてまた、同じ素に思いを持って欲しいと願うからだ。

「まだ10歳にも満たない少女が俺を見つけて、こっそりと傷の手当てをしてくれた」
「巫女か?」
「そうだ。そこは、やがて神の花嫁になるために選ばれた巫女が住む尼僧院だった」
「神の花嫁…?」
「キレイ事だ。ようは生け贄になるのだ」
 それを、ルイは、尼僧院を抜け出してから知った。
 知った時には、もう戻れなかった。
「生け贄…?」
「神事を司るための、災いが起きた時のための、人柱よ!」
「少女をか?」
「傲れるあの国は、神の名を借りていたいけな少女を殺す。それも選び抜かれた美少女ばかりだ。〈南〉の神は色悪とみえる」
「信じられん…!」
「砂漠や〈北〉では女は宝だからな。だが〈南〉は神の名の下に女を殺す」

 記憶は、今もルイの脳裏に鮮やかに残っている。
 亜麻色の髪、ブルーの瞳の少女。
 あんなに色濃く王族の印が現れた少女を見たのは、後にも先にもあれきりだ。
 もしかしたら、ルイともどこかで血が繋がっているかもしれない。
 名乗りもしなかった。
 互いに、そこにいる理由も尋ねなかった。
 すべてを承知しているかのように、見知らぬ少年をかくまい、傷の手当てをし、食事を運んでくれた少女が、たぶんルイの初恋だった。
 キズが治るまでの5日間。
 亜麻色の髪を撫で、うっすらと朱に染まった頬に触れ。
 たったそれだけで終わってしまった、幼い恋――…。

 ――そうして。
 人身御供になるその時を、尼僧院の中で息を殺すようにして暮らしていたあの少女は、たぶんもう生きてはいまい。
 神の花嫁という名の下に、無益なだけの儀式に捧げられたのだ。
 それを思うだけで、今も臓腑が煮えくり返る――…!

「お前はどうする、伊佐?」
 と、ルイは厳しく問いを突きつける。
 このままでいいのかと。
〈南〉の傲慢を許しておいていいのかと。
「ミノスには〈南〉を落とす力はない」
「わからんぞ。頭に立つのは誰でもいい。ようは、参謀を揃えられるかどうかだ」
「俺には、蘭月と光輝がいる。頭と力が揃っている」
「では、氷雨はどうだ?」
「氷雨か…、あれの考えなど誰にわかる? だいたい氷雨がどれほど知略に長けているか、実際に知ってる者は誰もいない」
〈黒〉の長老は〈北〉で一番の勇者だった。
 砂漠の脅威から1人で〈北〉を守り通してきた。
 未だ、これと言った戦果を上げていない氷雨の価値は、その〈黒〉の長老が育てた男ということだけだ。

「お前は知っているのか? 氷雨は本物か?」
 とたんに伊佐は顔を歪め、
「でなければ、とうに俺達は〈黒〉を攻め落としているさ」
 不快げに言い放つ。
 瞬間、ルイの顔に、驚愕とも歓喜とも知れぬ色が広がった。
「それは初耳だ。いつ、やった?」
「知らん!」
 砂漠の男は恥を嫌う。
 負け戦の話など決してしない。
 氷雨の力が過小評価されているのも、勝った当人は口を開かないし、負けた者達も何も言わないからだ。

「なるほど、氷雨と馴れ合ってるのは、実は怖いからか? 砂漠の伊佐ともあろう者がな」
 ククッとルイが喉で笑う。
「ぬかせ。俺は心底、あれに惚れているだけだ」
「そうか。他人のものとなると、欲しくなるな……」
「何…?」
「俺に惚れろ。氷雨は応えてくれぬが、俺は応えてやるぞ」
「――――!」
 ゴクリと、伊佐は驚きに喉を鳴らした。
 なんて直接的な口説き文句だ。
「今度は俺が行く」
 不敵な顔が近づいてくる。
「俺が、砂漠に行く。お前に逢いにな」
 恐れを知らぬ傲慢な男は、ヌケヌケと言う。
「お前が〈北〉に来れば狙われる危険が多い。俺が逢いに行く方が無難だ。俺は砂漠を知っている」
「砂漠に来ると…?」
「来て欲しくはないか? これきりにしたいか?」
「…………」
 伊佐は答えられない。
 これきりになどしたくはない。
 だが、自分から逢いたいとは言えない。
 そっとルイは触れるだけの口づけを、送ってよこす。
 驚く伊佐の目の前で、妖しく光る銀灰の目。

「二人だけの秘密の逢瀬だ。楽しみじゃないか?」

 ペロリと舌なめずりする褐色の獣を前に、伊佐はすでにその日を待ちわびて異様な興奮を感じている自分に、ただ呆れていた。

       ◆◆◆

 ルイと伊佐の逢瀬は、その後も10数回に渡って密かに続けられた。
 身体を重ね、言葉を重ね、想いを重ね――…。
 その最後の日、守弥さえも知らない盟約が二人の間で交わされる。

 熱いルイの身体を組み伏しながら。

「お前を〈北〉の王に据える」

 伊佐のその一言で、すでに族長会議の結果は見えていたのだ。


        to be continued