第二章 第九回



「何故…、その名を知っている?」
 蘭月は、驚きと困惑を抑えながら、氷雨に問いかける。

 ――リード・白蘭。
 それは、誰も知るはずのない名前。
 捨ててしまったはずの名前。
 守弥は命の恩人ゆえに、話さざるを得なかった。
 ルイは鋭い直感ゆえに、何も語らずとも気づいていた。
 だが、それ以外には、たとえ光輝やダイモーン・青龍にさえ、真実は伝えていないというのに。
 だが、この男は勘づいている。
 いや、知っているのだ。
 自分が、マリオ・亜鈴よりも王座に近い男だと。
 蘭月が〈西〉に戻って、その身分を表明すれば、たちまち政権抗争が勃発するだろうことを。
 戦いの火種になるだろうことを。
 知っているこの男は何者だ――…?

「お前…、誰だ……?」
 氷雨が〈北〉に流れて来たのは、6年前。
〈西〉の王位継承争いが起きたのが10年前だから、その頃、氷雨はまだ〈南〉にいたはずだ。
 ウワサでも耳にしたのだろうか?
 逃げた王族の名を。
 行方知れずの王族の名を。
 そうして、蘭月の名からリード・白蘭の名を連想したのだろうか?
 だが、そこまでのことを知っている者だとすれば――…。

 氷雨の言葉に受けた衝撃がようよう引いて、いつもの皮肉混じりの自分を取り戻し始めた蘭月は、砂漠独特の文様が刻まれたルイお気に入りの椅子に腰掛けた。
 フウーッと大きな息を吐き、
「参ったな……」
 と、誰にともなく呟くと、黙したまま窓辺に座る氷雨の常と変わらぬ怜悧な横顔を、憎々しげに見やる。
 秘密を持った男だとは思っていた。
 だが、これは想像以上だ。
 
(俺と同じ立場だと――…?)
 だとしたら、とんでもないことだ。

 蘭月は、れっきとした〈西〉の王族であり、現王マリオ・亜鈴は従兄弟に当たる。
 王族の半数が命を落とした10年前の政変の後、子供の方が御しやすいとの宰相達の企みで、マリオ・亜鈴は、たった7つで王冠を戴かされた。
 だが、彼も今は17歳になっている。
 少年王は、いつまでも宰相達に踊らされるだけの人形ではなかった。
〈西〉は彼の元で安定した時代を迎えている。
 だが、より継承順位が上である自分の存在が知れれば、再び国は乱れるだろう。
 だから戻れない。
 狂うほど焦がれた故郷も、再びこの目にすることはかなわない。
 愛する従兄弟にも、死ぬまで相まみえることはない。

 そして、氷雨が〈南〉において自分と同じ立場であると言うなら、それは、先帝ギリアンの末弟であるパブロ・天羽よりも正当な王位継承者だという意味なのだ。
 そんな者がいるとすれば、先帝の兄弟ではなく、直系の男子でしかあり得ない。
 好色なギリアン・雷鳴には25人の王子がいたが、彼らはすべて治世を疎かにした父王と同罪とみなされ、継承権を剥奪され、その地位を追われた。
 ギリアンに従っていた兄弟達も同様。
 ゆえに、唯一、ギリアン・雷鳴に疎まれることを承知で意見し続けていた25歳も年下の末弟、パブロ・天羽が王位に就いたのだ。

 ――だが。
 もしも、追放されなかった王子がいたとしたら。
 正式な愛妾以外にもギリアン・雷鳴が気まぐれに手を出した女は星の数ほどいる。
 が、その女達が産んだ子供は、後の災いにならないようにとほとんどが密かに始末されたはず。
 しかし、その必要のない子供がいたとしたら?
 神の気まぐれか、魔性の悪戯か、黒い髪と黒い瞳で生まれ、殺すまでもなく奴隷の身に落とされた者がいたとしたら。

 存在してはならない〈南〉の王の血を引く奴隷――…。

〈南〉にあれば、騒動のタネにはなっても、黒髪と黒い瞳を持つ以上、奴隷以外の何者でもない。
 だが、奴隷制度のない〈北〉では、血筋が重要となる。
 ギリアン・雷鳴の息子となれば、ルイやミノス以上に王位継承の候補に挙がってもおかしくない堂々の血統だ。
 黒い髪と瞳は、王になる者としての一つの条件である金髪碧眼にはほど遠いとはいえ、その怜悧で端正な面立ちは蘭月をして、
(こいつには負けた〜☆)
 と、思わせるほどだ。
 その上、〈黒〉の長老が育てたというお墨付きを持ち。
 さらに、〈北〉の宿敵である砂漠の伊佐までをも虜にした男。
 皆が知れば、どれほど驚嘆することだろう。
 ダイモーン・青龍は、守弥は、光輝は、ルイを王座に据えようと画策してきた者達は、どれほど慌てふためくことだろう。
 
(冗談じゃない。ルイもぶっ飛ぶ正当な血筋の上、砂漠と手を組むためには誰よりも条件にかなった男じゃないか……!)
 一瞬、脳裏に浮かんだその考えを、だが、蘭月は頭を振るって追い出した。
 それは、あまりに突飛な想像だ。
 そして、あまりに残酷な運命だ。
 正当な王族であった蘭月でさえ、両親と弟を殺され、身一つで故郷を逃げ出さねばならなかった己の運命を、どれほど呪ったことか。
 だが、氷雨の背負った運命は、その比ではない。
 黒髪と黒い瞳を持って生まれたがゆえに、王族でありながら一介の奴隷に堕とされた者の悲哀を、誰が想像できる?
 その慟哭は。
 その絶望は。
 いかばかりのものだったろうか――…。

「俺が火種だと…? 本当の火種はお前じゃないのか?」
 蘭月は、誰にともなく呟いた。
〈北〉は掃き溜めの地だ。
 そこには王族から盗人までが混然となって暮らしている。
 それにしても――…。

「お前は、本当にこの地にいるべき者か…?」
 蘭月の問いに、だが、氷雨は答えない。
 ただ静かに俯くだけ。

 すべてを悟ったような静かな横顔が言っている。
 明かされない方がいい秘密もある。
 心の内で想うだけの方が、いいこともある。
 蘭月が、従兄弟であるマリオ・亜鈴のためを想い、この〈北〉の地に名もなき者として身を埋めようとしているように。
 氷雨にも、想っても、想っても、決して相まみえることの許されぬ者がいる。
 それが、〈北〉への大いなる裏切りとなることはわかっているが。
 それでも消せない想いがある。
 それでも消えない愛がある。
〈南〉でもっとも高貴な者の血を引きながら、奴隷の身に落とされた自分を、身分の隔てなく慕ってくれた少年。
 その不運を己のことのように嘆き、涙してくれた少年。
 鎖を断ち切り、自由への道を示してくれた少年。

 決して呼ぶことのかなわぬ名を、心の奥底に氷雨は今もしかと抱いている。

(パブロ・天羽…。我が天使――…)

 それこそが、やがて〈北〉の宿敵として戦わねばならぬ〈南〉の美しく病弱な少年王だと、いったい誰が想像できただろう。

       ◆◆◆

 蘭月が氷雨のとんでもない告白に頭を悩ませている時、砂漠を見下ろす岩場の上でも、王座を巡る会話が交わされていた。
 
「守弥は〈西〉とも交易してるんだ。お前の母親を帰すこともできたんじゃないのか?」
 伊佐は、今さらながらと思いつつ、ルイに問う。
 故郷に焦がれて、死んでいったルイの母親を、どうして〈西〉に帰すことができなかったのかと。
 ルイの後見人である守弥は、貿易商人として〈西〉にもかなりの人脈がある。
 それでも、さらわれてきた姫を帰すことはできなかったのだ。

「そんな簡単なものか。〈西〉でも王位継承の争いは絶えない。王族が減ることを喜びはしても、増えることは歓迎しない。いったん〈北〉に奪われた傷物の姫など誰が迎えてくれるものか」
「王族ってのは、その程度のものか?」
「王座に就けるのは1人だからな」
「どこでも同じだな」
 伊佐は、軽蔑に口元を歪める。
 暗に、ルイとミノスの蹴落とし合戦を匂わせているのだ。
 だが、フンと、ルイは鼻で笑い飛ばす。
「俺は、ミノスなど眼中にない」
 その目は、遠く砂丘の彼方に向いている。
「たとえミノスが王に選ばれても長続きはしない。あいつは他人を盾にして身を隠す姑息な男だ。1年もしないうちに議会はミノスを王座から引きずり下ろすだろう」
「王は姑息でもいいんじゃないか。実際に戦うのは兵士だ」
「砂漠の伊佐の言葉とも思えんな」
 ククッと、ルイは喉で笑った。
「強さを尊ぶ〈砂漠の民〉が、自分の陰に隠れる男に従えるか?」
 褐色の肌が、太陽に炙られて輝いている。
「敵に身をさらさぬ男に従えるのか?」
 銀灰の瞳が伊佐の心を射抜く。

(この男――…!)
 過去、いったい何度、剣を交えただろう。
 だが、そのどの戦いにおいても、ルイが誰かの陰に身を隠したことはなかった。
 いつも高々と声を上げ、真っ先に剣を振るって迫ってきた。
 その鬼気迫る形相に、決して死を恐れぬ戦いぶりに、時には畏怖の念さえ持ったものだ。
 敵ながら天晴れ。
 天晴れすぎて気に入らぬ。
 と、そのたび恨みだけが増していった。
 その男と、いつの間にか何気に会話をしている。
(俺はどうしたんだ?)
 身内を殺された。
 何人もの仲間がキズつけられた。
 仇でしかない男と、何を馴れ合っているのか?

「お前、さっき俺を光輝と間違えたと言ったが、あれはウソだな」
「何を今さら?」
「一番無防備な姿をさらし、俺がどう出るか試しただろう?」
「わざわざ命懸けで俺の領土に踏み込んだ男を、どうして試す必要がある?」
「ならば、どうして?」
「俺は、弱点をさらさぬ者は信じない」
「……?」
「いつも敵意を丸出しに身構えている者を。お前は信じられるか?」
「――――!」
 気がつけば、さっきからルイは、剥き出しの背中を伊佐にさらし続けている。
 ただの一度も身構えもせず。
 殺気の欠片も発さずに。
 ただ、静かに砂漠を見下ろしながら、語り続けている。
 命懸けでルイの領地に足を踏み入れた伊佐への、それがルイなりの敬意の表明なのかもしれない。

(そうか、これがルイか……)
 何故、守弥がルイに逢えと言ったか、わかったような気がした。
 この姿を見せたかったのだ。
 戦う時は鬼神のごとく。
 だが、普段のルイは、決して怒りや憎しみのような突発的な感情で行動することはない。
 それこそが、自ら選ばれた者と信じる男の余裕なのだ。

 父親は、犯罪者として処刑された。
 母親は、故郷を焦がれて寂しさの果てに死んだ。
 その身体は、王座を望んだ男の執念の産物なのだ。
 愚かな誕生のしかただが、与えられたものなら利用させてもらう。
 それがルイの決意。
 この〈北〉のために。
 子供達に明日を約束してやれる国にするために。
 さらに、東西南北、すべての国に生きる民のために。
 王家の権威の象徴として意図的に作られた神話ゆえに奴隷として虐げられた者を解放し、無益な因習の犠牲となって命を落としている者を救うために。
 それらすべての者の犠牲の上で、のうのうと怠惰な栄華を貪っている〈南〉の貴族どもの欺瞞を暴くために。
 そして、今もどこかの王国で繰り返されている、無益なだけの王位継承の争いをなくすために。
 俺はこの大陸の王になる――!

 あまりに壮大すぎるルイの望みを、まだ伊佐は知らない。
 だが、その銀灰の目が見つめているものが〈北〉の王座だけではないことを薄々感じ、残された右目で瑠偉の視線を追う。

「お前は、俺を恨んでないのか?」
 そんなことを口走る自分が小さく思えるほど、ルイは遙か遠くを見つめている。
「砂漠の男は、すぐに恨みを口にするな」
「それが砂漠の掟だからだ」
「恨みや憎しみはあるさ。人並みにな。だが俺は、それ以外の感情の方が勝るんだ」
「それ以外の感情?」
「欲望さ」
 まるで誘うように笑うルイに、伊佐は眉をひそめる。
(この男、器がでかいのか、バカなのか…)
 もしかしたら、とてつもない大物なのかもしれない。
 王座欲しさに賄賂を送り続けてくるミノスより、〈砂漠の民〉の命運を懸ける価値はあるのかもしれない。

(でも、実は、ホントにただの好き者なのかも……)
 とも、ちょっと思った。


        to be continued