遙かに砂漠を見晴るかす岩場に立ち、ルイは背後の伊佐に語りかける。
「その目、惜しいことをしたな。揃っていれば、さぞや見事だったろうに。〈南〉で潰されたと聞いたが」
ウワサはルイも聞きおよんでいた。
伊佐の目が潰されたのは、〈ハヤブサ〉を率いて〈南〉に攻め入った時だと。
手傷を負った仲間をかばい、共に囚われてしまったのだと。
「盗人稼業も楽じゃないのさ。時にはドジを踏むこともある」
フンと伊佐は、鼻息荒く、吐き捨てる。
思い出したくもない失態。
「深入りしすぎた。仲間まで犠牲にした。俺の不覚だ」
「それでも〈南〉に囚われて、生きて戻ったのはお前だけだ」
「運が良かっただけだ。俺を買い取った男が途中で恐れをなして、逃がしてくれただけさ」
「運も強さの一つだ。砂漠でも〈北〉でも、運のない者は生きてはいけない。砂漠では何人の子供がちゃんと大人に育つ?」
「3人に1人は死ぬ」
答えながら、伊佐は妻の花梨と、産まれることさえできなかった赤子のことを思う。
(花梨とあの子のために、俺はここまで来たのだ)
それが、伊佐の決意。
宿敵であったルイに頭を下げてまで、砂漠と〈北〉の和平を築こうとしているのも、そのためだ。
怒りや憎しみは、悲劇しかもたらさない。
だから、今度こそ何があっても我慢してみせると、逝ってしまった二人に、心で誓う。
「ここはもっと酷い」
ルイは言う。
「半分も生きられない」
何の感情もこもらない声で。
泣いても、怒っても、どうにもならない現実がそこにはある。 「残念ながら、〈北〉の人口を増やしているのは、生まれてくる子供ではなくて、流れ者だ」
「無頼の国だな」
「そうだ。だが、法も秩序もある。すべての民が160の部族のどこかに属している。ただの1人も把握できない者はない」
「どこぞに潜んでいる者がいるかもしれんぞ」
あり得ない問いに、ルイはクスと笑う。
「そんな者はいない。冬を生き抜く知識もなしに流れて来た者は、どこで隠れていようと、冬になれば凍え死ぬか飢え死ぬか、どっちかだ」
「砂漠の夜も寒いぞ」
「比べられんな。砂漠はどんなに厳しくても、オアシスには冬は訪れない。〈北〉の冬は、どこまでも凍てつく雪と氷に覆われる」
砂漠と〈北〉とを分かつこの不毛の岩場を挟んで、気候は驚くほど様変わりする。
砂漠には雨も降らないが、雪も降らない。
だが、〈北〉は長い冬の間、酷薄なまでに美しい銀世界に変わる。
「この土地を俺達はもっと豊かにする。犯罪者の流刑地ではなく。ここで生まれた子供達が築いていく国にする。そのためには、もっと多くの知恵が必要だ」
「知恵?」
「千年以上も前に失われた先人達の知恵を〈南〉は蓄えている」
「先人とは…、創生の神話に語られる天使のことか?」
伊佐は、眉根を不快に寄せた。
それは、〈砂漠の民〉にとって不快でしかない神話だ。
黒い髪と瞳の人間を、金髪碧眼の天使の下に位置させる、彼らにとっては差別以外の何ものでもない神話。
だが、ルイは首を横に振った。
「創生の神話はまやかしだ。俺が言っているのは、そのさらに前の時代の話だ」
「創生の神話のさらに前だと…?」
「俺も詳しくは知らん。母から聞かされた」
ルイの母親、アガサ・紫苑は〈西〉の王家の姫だった。
「王家には、神話より以前の世界の伝承として残されている。それによれば、元々人間は、髪も目も肌も様々な者がいたらしい」
「本当か?」
「真実はもう誰にもわからん。でも、金髪碧眼で白い肌の天使に似た容姿なんてのは、王家にとって都合のいい作り話でしかない」
「王族が、それを言うか?」
「俺が容姿に頼っていると思うか?」
と、砂漠の太陽に炙られ、褐色に染まった肌を見せつける。
伊佐は目を眇める。
逞しい身体だ。
見事な筋肉だ。
それ自体が、見事な鎧のようだ――…。
「元々地黒だったとも聞いてるぞ。それを誤魔化すために焼いてるのだとも」
だが、見惚れていたのを誤魔化すように、伊佐は視線を逸らせ、憎まれ口を叩く。
「それも、まんざらウソじゃないな」
と、ルイは笑う。
「確かに、俺はミノスより容姿では劣っている。だが、血筋は俺の方が正当だろうな」
「ミノスは確か、父親が〈東〉の王家の出身だったな」
「俺の父は、祖父の代に〈南〉から追放された王家の出だ。その家柄をより強固にするために、父は〈西〉の姫をさらってきて、無理矢理妻にした」
その言葉に、伊佐は不快も露わに顔をしかめた。
「おい…、〈北〉の男にとって女は宝じゃなかったのか?」
「だから、それがバレて罰せられた。甘い男だったな。王族は特別あつかいされるとでも思っていたのか。俺が生まれる前に処刑された」
「まさか、あの処刑か?」
と、伊佐は眉根を寄せる。
「あの処刑さ」
他人事のようにルイは言い捨てた。
女を強姦した者への処刑方法は、二度とそれができない身体にすることだ。つまり、男のシンボルを切り落とし、砂漠に打ち捨てるのだ。
ほとんどの者は出血多量で死ぬ。
運良く生き延びても、砂漠の太陽が最後の審判を下してくれる。
むろん、ルイの父親も生きているはずはないし、よしんば命長らえていたとしても、自分の手で殺してやりたいほど最低の男だとルイは思っている。
「母は、俺が10歳の時に死んだ。いつも〈西〉の空を見つめていた。帰れる日のことだけを夢見ながら死んでいった。哀れな女だった」
「無惨だな。〈西〉の姫が、こんな地で……」
「死ぬまで〈西〉に焦がれていた。すでに処罰されていた父を許さず、無理矢理産まされた俺になど目もくれず、毎日毎日、西の空を仰いでいた」
言葉の一言も。
視線の一つさえも。
ルイは、ついにかけてもらえなかった。
べつに今さら母親の愛に飢えていたなど思わないが、〈西〉に帰してやれなかった己の無力に歯噛みしたことはある。
「俺が10歳の時に、城の高窓から飛び下りて死んだ」
〈西〉は美しい都だ。
水上に浮かんだ楼閣。
市を彩る、艶やかな布地や宝石。
行き交う商人達の、活気あるかけ声。
この荒れ果てた〈北〉の地で、あの都に焦がれるのも、しかたないことかもしれない。
哀れな女だと、ルイは思う。
ただの一欠片も我が子に心をかけず、もはや帰れぬ故郷を夢見。
焦がれて、焦がれて……、焦がれ死んだ。
「飛んで帰りたかったんだろう。故郷に」
そう言って、ルイは、遠く西の空を見やった。
◆◆◆
亡きルイの母と同じ想いで、遙かな西の空を見つめている男が、今一人いた。
高級男娼、蘭月である。
守弥とルイしか知らぬ、その本名はリード・白蘭。
〈西〉の王家の血を引いたその男は、ダイモーン・青龍たっての推薦を拒み、一介の無頼の民として生きることを望んだ。
――その日。
伊佐がルイに逢いに来ると聞いて、蘭月は、これは一波乱あるだろうと、好奇心丸出しの足取りでその居城を訪れた。
だが、期待に反して、そこに罵り合いの声は轟いていなかった。
「おや、ルイと伊佐は?」
一人、楼閣に残る氷雨に、蘭月は訊ねる。
氷雨は、顎をしゃくって窓の外を示した。
「外に行ったのか、二人っきりで?」
氷雨は頷く。
「チェ〜。遅かったか」
明らかに、興味本位の蘭月の反応に、氷雨は冷たい視線を向ける。
その目が、お前は〈北〉と砂漠が争うことを望んでいるのかと言っている。
「なんだよ〜。そうあからさまに軽蔑した目で見ることないじゃないか。俺は、世の中なるようにしかならないもんだと思ってるだけだ」
もともと〈西〉の出である蘭月には、〈北〉の民の憎悪とも言えるほどの〈南〉への敵意はない。
〈北〉と〈南〉の戦いが始まれば、中立国である〈西〉は、難しい選択を迫られることになる。
若き少年王、マリオ・亜鈴の苦悩を思えば、単純に〈北〉と砂漠が手を組むことに賛成する気にもなれない。
今はこうして〈北〉に生きながら、心の中に未だ〈西〉への思慕を捨て切れぬ蘭月の、それが〈北〉に対する負い目なのだ。
「お前はどうだ? 〈北〉と〈南〉が戦うことになって、平気でいられるか?」
と、蘭月は、無言で自分を責める氷雨に問う。
「お前は、俺よりもっと複雑な立場じゃないのか? え、氷雨よ」
「…………」
答えはない。
むろん、期待もしていない。
たとえ蘭月の読みが事実でも、この地でそれを肯定することなどできようはずもない。
氷雨は〈南〉からの逃亡者なのだ。
14で砂漠を越えて、行き倒れていたところを〈黒〉の長老に拾われた。
それ以前、彼の身に何があったかを知る者はいないが、また、あえて問う者もいない。
〈北〉では過去は関係ないのだ。
それでも、ある程度想像はつく。
黒い髪と黒い瞳は〈南〉の天敵〈砂漠の民〉の象徴だ。
〈南〉で、その姿を持って生まれてきてしまった子供は、たとえ、どれほど名家の出であろうと、奴隷に身を落とすしかない。
そして、奴隷となれば、〈南〉から逃げ出すことなどできるはずもないし、それ以上に、一人で砂漠を越えることなど奇跡でも起こらなければ無理な話だ。
つまり、何者かが手を貸したのだ。
氷雨の身を案じ、その鎖を解き、無事に逃げられる道を示してくれた者が〈南〉にいたのだ。
信じられない話だが――…。
氷雨は、今もって、その人物に感謝と尊敬を抱いている。
当然だ。
命の恩人を誰が忘れることができる。
もっとも、その口は何も語らぬが。
氷雨が〈南〉の空に向ける視線は、蘭月が〈西〉の空を仰ぐ時のそれと、あまりに似ている。
「たまには腹を割って話さないか?」
と、蘭月は、寡黙な男に語りかける。
「もしもルイが王座に就けば、必ず〈南〉との火蓋は切られる。俺もお前も、ルイの知恵袋として〈南〉に敵対しなければならないんだぞ」
「…………」
「どれほど〈南〉に大事な者がいても、お前は〈北〉の人間として戦わなきゃならない。その覚悟はあるのか?」
氷雨の表情は変わらない。
「どこの誰それだと名乗れとは言わん。ただ頷くくらいしてみろ。お前はただの奴隷じゃない。何か、よほど特別の事情があった者だろう?」
時々しか披露されぬ片言からだけでも、その頭の中に膨大な知識が秘められているだろうことは、想像できる。
そして、品性卑しからぬ立ち振る舞い。
それは〈黒〉の長老に鍛えられたものではない。
幼い頃から身についたものなのだ。
「お前が、口を利かないのは。もったいぶってるからだけじゃない。しゃべれば、その発音で身分がわかるからだ。時々発せられる言葉だけを聞いていても、見事になまりのない〈南〉の貴族階級のものだぞ」
蘭月は、1歩踏み込んで問いかける。
「それも、ただの貴族じゃない……」
もしかして訊いてはいけないことかもしれないが。
「俺が聞くかぎり、お前の発音は王族特有のものだ。だが、黒髪の奴隷が王族の言葉を話すなど、あるわけがない」
続きを遮るように、氷雨が口を開いた。
数ヶ月ぶりに聞いたその声は、あまりに意外な言葉を発したのだ。
「それがわかるのは、お前も同じ者だからだ」
蘭月は目を見張った。
(同じ者だと――…?)
自分と同じだというのか?
それは、王族だと言う意味か?
確かに、氷雨の発音は王族特有のものなのだ。そして、黒髪の奴隷が王族の言葉を話すなど、あるわけがないとすれば……。
「まさか……!」
蘭月が王族だというウワサは、公然と語られているし、ダイモーン・青龍が、王位継承候補として指名しようとしたことで、さらにその信憑性も高まりはしたが。
それでも、蘭月の本当の身分。
〈西〉の現王、マリオ・亜鈴よりも高位の王位継承者であるなど、想像さえする者はいないだろう。
「俺と同じだと……?」
ゴクリと、蘭月は息を呑む。
「そこまで言うなら、俺が誰か…、何者か知ってるのか…?」
氷雨は、静かな面に戸惑いの色さえもみせず、あくまで淡々と唇を動かした。
「リード・白蘭。〈西〉の火種だ」
瞬間――…、蘭月の目に驚愕の色が広がった。
to be continued
|