第二章 第五回



 人生45年と言われているこの時代。
 なんと齢70で天寿をまっとうした〈黒〉の長老は、臨終の床で領土を4人の若者に託した。
 その1人が、長老自ら知恵のすべてを授けて育てた上げた戦士、氷雨であった。
 寡黙で、冷静で、およそ羽目を外すことがない氷雨は、お祭り騒ぎとケンカが大好きで酒と剣を手放せぬ〈北〉の男達の中で、かなり異質な存在だった。
 語らぬ口の下には〈北〉の誰をもしのぐ知識と戦略が、満々と泉のごとく蓄えられているという。
 だが、その氷雨の能力を身をもって知る者は、未だない。
〈黒〉の長老が築き上げた〈砂漠の民〉との友好的な状態が維持されているために、氷雨が陣頭に立って戦う必要がないからだ。

 しかし、伊佐は一度だけ、〈黒〉の長老に手ほどきを受けている氷雨を見たことがある。
 その瞬間、恐れを知らぬ男の全身が総毛立った!
 地獄からの使者だと、心底肝を冷やしたものだ。
(絶対こいつは敵にはしないぞ〜!)
 と、固く心に誓ったことを忘れはしない。

 以来、ぞっこん惚れ込んで、ヒマがあれば言い寄っているが、ただでさえ寡黙な男から色好い答えが返ってきたことは……。
 当然ながら、ない。

       ◆◆◆

 その氷雨を同行して訪れた、ルイの居城。
 隣室に氷雨を待たせ、伊佐は、それこそ待ち伏せにあう覚悟で1人でルイの部屋へと足を踏み入れたのだが……。
 そこに見たのは、砂漠独特の敷物の上にズベタラ〜と仰臥する、緊張感の欠片もない褐色の男の一糸まとわぬ姿だった。

(何をしている、こいつは…?)
 今日、伊佐が訪れることは、守弥から連絡がきているはず。
 なのに、これが客を迎える態度か?
 昨日までの宿敵を迎える姿か?
 だが、この程度で驚いていてはいけない。
 さらに、ルイは寝そべったまま、呑気な声で言ったのだ。
「光輝か? ちょうどいい。そこの香油を塗ってくれ」
「――――!」
 あんまり驚いて、伊佐は言葉も出ない。
(たわけだ…☆)
 伊佐を光輝と間違えているのだ。
 たとえ気配だけであろうと、自分の恋人と敵を見分けられないようであっては、話し合いなどする以前の問題だ。

(後ろから、首でも締めてやろうか〜)
 と、思いはしたものの。
 だが、すぐに、もしや芝居かも知れないと閃いた。
 たわけのフリをして、こちらの出方を試しているのかもしれない。
 ここで暴挙に出れば、ルイに自分を討つ理由を与えるだけだ。
 ならば、とことん言われるままにしてやろう。
 香油を一すくい手に取った瞬間、それもまた砂漠で作られた物だと気がついた。
 見れば、部屋中に砂漠の品が溢れている。
 単にルイの趣味なのだろうが、伊佐には奇妙に見えてしかたがない。
(砂漠に敵対する男が、何故…?)
 椰子油から生成された香油は、伊佐の手にしっとりと馴染む。

「早くしろ。クソつまらん会議になど出たから、あちこち凝ってしかたがない。よく揉んでくれ」
 すっかり光輝だと信じているルイに催促されるまま、褐色の肩に香油を塗りつける。
 瞬間――…、あまりに心地よい手触りに、ゾクリと全身に得も言われぬ痺れが走った。
(そうか、これは、砂漠で焼かれた肌だ!)
 信じられない。
 伊佐でさえ、砂漠では太陽を畏れて肌を隠すのに、ルイはその中を裸で駆け巡ってきたのだろう。
 そうして、この肌は、燃えるような褐色に染まったのだ。
 同じ砂漠で生きてきた者として、ルイがその人生の大半を、実は砂漠で過ごしていたことに、今、伊佐は気がついた。
(マヌケか、俺は…!)
 砂漠における、ルイの鬼神のような戦いっぷり。
 あれが、砂漠で育った者以外の何だというのだ?
 この男は〈北〉の王族でありながら、自ら好んで砂漠に足を踏み入れて身体を鍛えたのだ。

「今日は無口だな」
 と、ルイが何気に問う。
 光輝は男のくせに口が軽い。
 未だ口を開かぬ伊佐を、もしや人違いかと訝っているのかと思ったら、
「氷雨ブリッコか? 似合わんからやめておけ」
 と、マヌケたことを言ってくる。
(まだ気づかんのか、このうつけが〜!)
 少々苛立ちながらも、伊佐はほとんど意地で、ルイの身体にたっぷりと香油を擦り込んでやった。

「塗り忘れてるぞ」
 突然、ルイが言う。
(バカめ。全部、キレイに塗ってやったわ!)
 だが、ふと気がつく。
 忘れたわけではないが、触れもしなかった場所が、一カ所、思い浮かんだ。
 そこは、恋仲の者にしか許されない…。
 でも、ルイと光輝は恋人でもあるのだ。
「どうした? いつもは真っ先にやりたがるくせに。まだ氷雨を真似て上品ブリッコか?」
 つまり、やっぱりそーゆーことなのだろう。
 双丘の奥に隠されている窄まりを押し開き、その中までも指を差し込んで揉みほぐせと、この男は言っているのだ。
 べつに嫌いじゃないし、見事な筋肉に覆われた締まりのよさそうな尻は、相手が宿敵であろうとやはりそそられるものだが……。

「本当にいいのか?」
 と、ここは念を押して訊いてみる。

 俯せていたルイの身体が、ピクリと小さく身動いだ。
 そのまま顔だけわずかに動かし、目の端で伊佐の姿を捉えると、困惑と失望の混じったような気の抜けた声を出した。
「何だ、お前かぁ〜☆」
 瞬間、伊佐はガックリと脱力した。
「ホントにわからなかったのか?」
「光輝とそっくりだったぞ。似たタイプだとは思っていたが、気配だけだと区別がつかんな」
「お前はバカか〜。気配どころか、散々身体を撫でくり回したんだぞ、俺わぁー!」
「だから、その触り方が、光輝と同じだと言ってるんだ」
 伊佐にとって、あの生来の尻軽男と比べられるなんて、これほどの侮辱はない。
 だが、ルイは面白そうに言葉を繋ぐ。
「一度光輝と寝てみろ。保証する。病みつきになるほど最高の相性のはずだぞ」
「死んでも、あんな男と寝るもんかっ!」
「そうか? 楽しいぞ」
 と、ルイは笑う。

 この時点で、どこか話題がずれていることに伊佐は気づいていた。
 何か妙だ。
 こんな話をしにきたわけじゃない。
 誰が、命懸けで、わざわざシモネタなんかしにくるものか!
 それ以前に、どうしてこう緊張感がないんだ、こいつは。
 つい半年ほど前、〈ハヤブサ〉の一党を率いてルイの領地に攻め込み小競り合いをしたばかりだ。
 本来なら、目と目が合った瞬間、ビシバシと恨みの火花が飛び散ってもおかしくないはずなのに……。
 ルイから、過去の諍いに対する拘りは微塵も感じられない。
 そのままゆっくり身体を返して、仰臥すると、
「ついでに、前も頼もうか」
 と、ヌケヌケと言ってくる。

「俺は、召使いじゃないぞ」
 当然の反論だ。
 正体がバレた以上、ルイだって触れられたくはないはずなのに、
「いいじゃないか。ケチケチするな。巧かったぞ、お前」
 と、足を開いてくるルイは、どうやらそうでもないらしい。
「そんなことを褒められても嬉しくもない」
「そうか? あの手つきなら、さぞやあっちも巧いだろう」
「何ぃ〜?」
「さっさとやれ。気持ちよくしてくれたら少しは話も聞いてやるぞ」
「こっのぉぉぉ〜!」
 一瞬、本気で殺意が閃いた。

 こんなふざけた男だったのか?
 兵を率い、馬上で大刀を振るう褐色の鬼神の正体は、こんな緊張感の欠片もない男だったのか?
 こんな男に、〈砂漠の民〉は引っ掻き回されてきたのか?
 あまたの勇者が倒されたのか?
 頭の中はもう真っ白〜。
(こんなバカな…、こんなバカなぁぁぁ〜!)
 と思いながらも、何故か香油を手にすくって、ルイの褐色の肌に塗りつけている。
 肩に、胸に、見事に隆起した腹筋に……。
 何度も何度も剣を突き刺すことばかり考えていた身体に、どうしてこんな形で触れているのだ。
 そして、それが悔しいほどに心地いい。
 砂漠の太陽に裸体をさらし、焼かれ続けることで磨き上げられた鎧のような肌。
 見事な筋肉、逞しい四肢。
 こんな身体をした男は、砂漠にさえいない。

(欲しい――!)
 妻、花梨が死んでから、半年。
 久々に湧き上がった激しい欲望に、下肢がカッと熱くなる。

 ――が、だからといって、いただいてしまうには、あまりに相手が悪すぎるが。

        to be continued