第二章 第二回


「ひ…ひでぇ〜☆ 鼻が潰れたら、どうしてくれるよぉ〜☆」
 ひん曲がった鼻をスリスリさすりながら、光輝は恨みがましい視線を蘭月に向けた。
「タイミングが悪かったな。ちょうど誰でもいいから殴り飛ばしてやりたい心境だったのさ」
「だからって、俺に当たるかー?」
 光輝は、ムーッと膨れっ面をする。
 蘭月は、まるで子供でもあやすように光輝の頭を撫でる。
 共に守弥を後見人とし、いっしょに育ってきた気安さからか、気品を売り物にしている蘭月も、光輝の前でだけは、ただのヒステリー男に成り下がってしまう。
 まあ〜、ちょっとやりすぎたとは思っているが、光輝は顔で売ってる男じゃないし

 今さら鼻の一つやそこらひしゃげたところで何ほどのものか。
「バカの一つ覚えみたいに同じことばかり訊きたがるからさ」
「俺は初めてだぞ。お前に逢って10年、訊いたのは今日が最初だ」
 もっとも光輝もバカではない。
 初めて、守弥に連れられて蘭月が館にやって来た時から、それとなく察してはいた――…。

 あれは、ちょうど〈西〉の王、サード・江河が病に倒れ、跡目争いが勃発していた頃だった。
 詳しい話は知らないが、10数人の王族が殺害されたと噂で聞いた。
 だが、当時の蘭月に、それを問うのは酷というものだ。
 何があったのか? 
 どんな惨劇に巻き込まれたのか?
 悪夢にうなされては、震えながら光輝のベッドに潜り込んできた蘭月を、まだ10歳にも満たない少年でしかなかった光輝は、抱き締めることしかできなかった。
 ぎこちない仕草で髪を撫で、つたない口づけで慰め、そうして毎夜の営みの中で、蘭月は光輝の初めての男になったのだが……。
 あれから10年、まだ蘭月の心の傷は癒えないのか?

「でも、お前を王に望む連中の気持ちもわからなくはないな」
 一銭も払わずに蘭月を抱ける数少ない男の1人である光輝は、蘭月を崇拝する男達の気持ちを、文字通り身体でもって知っている。
「お前なら〈北〉で一番美しい王として歴史に残るぞ。少なくとも確実に貢ぎ物だけは増えるな」
「美貌だけで王様家業ができるくらいなら、誰も苦労はしない。だいたい、お前が望んでいるのはルイだろう」
「俺のは、私情が入りすぎてるからな」
「一目惚れの相手だもんな」
「ふん〜☆」
 感情を隠さぬ光輝は、カッと頬を染めた。

 同じく守弥を後見人としながらも、光輝とルイが出逢ったのは、つい4年前のことだった。
 それまでルイの出生は、守弥の手によってひた隠しにされていた。
 王位継承の権利を有する者は、当然ながら命を狙われる危険性があるからだ。
 守弥の館で、初めてルイを眼前に認めた瞬間――…、光輝は一目で恋に落ちた。
 その気持ちは、ルイも同じだった。
 どちらも〈北〉のために命を懸けて戦おうとしている男同士、魅かれないはずがない。
 それから1週間、2人は片時も離れず、愛し合った。
 離れることができなかったのだ。
 これではきりがないと、ついにルイが年上の余裕で、自分の館に帰ってしまった後、ケンカ一つする元気さえなくし、光輝は1ヶ月も惚けていた。
 いつでも恋に全力投球。
 それが、光輝という男なのだ。

「ルイにしておけ。あれにはカリスマがある」
 出逢いの夢に浸っていた光輝は、蘭月の声で我に返る。
「何だそりゃあ?」
「王としての資質を言い表す、古い言葉だ」
「お前はそれだけ物知りで、ちっとも役に立てようとしねーな」
「ちゃんと役に立ててるさ。守弥を儲けさせてるだろう」
「この国に必要なのは金儲けができるヤツじゃない。戦える男だ!」
「金も必要なんだよ。武器を買うためにはな」
「自分から戦おうって気にはならないわけか?」
「ルイが王になったあかつきには、ちゃんと手助けをするさ」
「ミノスがなったらどうする?」
「う〜ん、あいつは趣味じゃないなー」
「ふざけてんのか、お前はー!」
 ふっと蘭月はほくそ笑む。
 あまたの男達を虜にした、妖しい笑みだ。

「王位継承なんて、高処の見物をしてこそ楽しめるもんだ」
「遊びじゃねーんだぞ!」
「風雅というんだ。価値のないことを楽しむのが俺の流儀だ」
「ふーが?」
 だが、この地は、情緒などという言葉とは無縁だ。
「だが、お前には戦いしか見えないんだろうな」
「それがいけないか?」
 光輝は言い切る。
「ここに、〈北〉に、遊んでるヒマが、どこにあるっ!」
「……そうだな」
 夏には、砂漠から吹きつける熱気に焼かれ。
 冬には、凍てつく雪原に成り果てる。
 この不毛の地で、せめて子供達を飢えさせまいと、隣り合った村々でさえわずかな食料を奪い合って争っていた。
 ダイモーン・青龍が法を整備し、同族間の争いを禁じた今も、小競り合いは絶えない。
 窓から流れ込んでくる風は、どこか血の匂いを含んでいる。
 今日も、どこかで誰かが死んでいく。
 生きていくのが精一杯のこの地で、風雅を味わう余裕などあろうはずもないのだ。
 蘭月は、窓から弓張り月の輝く西の空を仰ぎ、今は遠く離れてしまった故郷を思う。

 ――美しい都だった。
〈南〉にも劣らぬ華麗な都だった。
〈西〉には、〈呪われた砂漠〉や〈迷いの森〉を迂回して南北を繋ぐ唯一の通路、〈龍神の谷〉がある。
 神話の時代、〈北〉から〈南〉へと龍が一気に駆け抜けてできたといわれる渓谷だ。
 戦乱の世であればこそ、商人達はしたたかに国々を巡って商いをし続けていた。砂漠や樹海に遮られることなく、安全に南北を往来することのできる〈西〉は、彼らにとって交通の要所だったのだ。
 ゆえに〈西〉は、〈龍神の谷〉の穏やかな流れの中を行き来する貿易船の通行料で経済を支え、戦乱とは無縁の交易都市として発展してきた。
 それが、〈西〉の人間は呑気だと言われる由縁なのだが。

 今も時折、夢に見る。
 ゆったりと河を往来する貿易船の白い帆を。
 満々と水を湛えた三重の堀に囲まれる王宮は、空中庭園として旅人達の目を驚嘆させていた。
 民は勤勉で礼節を重んじ。
 王家は、学問を奨励し、芸術を愛し。
 そうして、〈西〉は、絢爛華麗な文化をはぐくんできた。
 ──しかし、そんな平和な国でさえ、王位継承のさいにはあまたの血が流される。

 ――10年前の悪夢の夜。
〈西〉の王、サード・江河が、突然流行病で倒れた夜、都は争いのるつぼと化した。
 蘭月……、いや、その時の名は、リード・白蘭。
 彼の父親は、王のすぐ下の弟だった。
 それでも、王に3人の息子がいる以上、決して王座を望みなどしなかった。だが、王子達はそうは思わなかったのだろう。

 今も耳に残る……。
 ドアを叩き壊す、けたたましい音。
 兵士達の怒鳴り声。
 父が、母が、召使い達が刃に倒れる中、涙をこぼす余裕すらなく、まだ6つになったばかりの弟の手を引いて、裸足のまま命からがら屋敷を逃げ出した。
 行く場所もない。
 助けてくれる者とてない。
〈龍神の谷〉沿いに、追っ手に怯えながら逃げる途中、幼い弟は持病の発作に襲われ、苦しみ抜いたあげくに死んでいった。
 素手で河原を掘り、弟の亡骸を埋めながら、リード・白蘭は泣いた。
 死んでいった両親のために。
 弟のために。
 任えていた者達のために。
 泣いて、泣いて、泣いて――…。
 もうこんなことはまっぴらだと、12歳の少年は、自らすべてを終わらせるために、龍神の流れに身を投じた。

 その時、偶然通りかかった守弥の貿易船に拾われたのは、奇跡としか言いようがない。

〈西〉の王位継承争いは、それから1年あまりも続き、10数人におよぶ王族が命を落とした。
 蘭月の家族を討てと命じた王子達も、例外ではなかった。
 血生臭い殺戮の果てに〈西〉の治世を継いだのは、亡き王の末弟の息子、蘭月にとっては従兄弟に当たる少年、マリオ・亜鈴だった。
 蘭月が弟同然に可愛がっていた少年。
 別れた時は、まだ7つ。
 子供の方が御しやすいと判断した議会は、年端もいかぬ少年に王冠を戴かせたのだ。
 が、子供も成長する。いつまでも無知なままではない。
 親類縁者を無益な争いで失った少年は、悲しみを振り切り、必死に政治を学び、王としての責務を模索し、17歳になった今、民を愛する心正しい名君として〈西〉にかつてない繁栄をもたらしている。

 だから、戻れない。
 どれほど焦がれ続けた故郷でも。
 マリオ・亜鈴より継承権上位の自分が戻れば再び争いがおこる。
 再び血が流される。
 たぶん、〈西〉では、自分は死んだ者とされているはずだ。
 それでいい。
 そのために、名を捨て国を捨て〈北〉の無頼の徒の中に紛れたのだ。
 この国は何者も拒まない。
 過去は問わず、すべてを受け入れてくれる。
 ここしかもう生きる場所はない――…。

「俺は意気地がないのさ」
 なのに、蘭月は、未だ故郷を忘れてはいない。
 心の奥底で〈北〉を裏切っている。
 だから、たとえダイモーン・青龍自らの指名であっても受けるわけにはいかなかった。
 自分には〈北〉の王として立つ一番大事な資質に欠けている。

 一番愛しているのは〈北〉ではない。
 二度と帰らないと誓った故郷は、今も蘭月の心に蜃気楼のように浮かんでは消える憧れの都なのだ。

        to be continued