第二章 第一回


 ――時は遡る――…。
 ルイ・八束が、族長会議の意外な展開によって〈北〉を統べる真の王となる日より、半年ほど前のこと。
 伊佐は、砂漠の交易都市〈シュロ〉にて、知らせの早馬が来るのを待っていた。

       ◆◆◆

〈北〉の王、ダイモーン・青龍が、あと半年で35歳の誕生日を迎えるという日。城の大広間に、160人の族長達を招集して告げた。
「私の治世も残り半年と迫った。〈北〉の法に従って、ここに王としての最後の責務を果たす」
 気性荒く、話し合いなど性に合わない族長達も、この日ばかりは騒ぎもせずに、15年間王座に就いてきたダイモーン・青龍の言葉に耳を傾けていた。
「王の名において、新王の候補者を指名する。王族の血を引き、なおかつ〈北〉の王としてふさわしい力と知恵を持った男達。その候補者の中から、次代の王は皆の投票で選ばれるのだ」
 お決まりの口上に続き、ダイモーン・青龍は3人の男の名を上げた。

「ルイ・八束。ミノス・栄千。そして、これは私の希望だ。正当な王族との証明はないが、蘭月を」

「おお――――っ!」
 と、場内にどよめきが広がった。
 ルイとミノスが候補に挙がることは誰しも予測していた。
 だが、まさか、蘭月の名前が告げられるとは……。
〈北〉以外の3つの国は、世襲で王位継承を行っている。
 だが、王というものは何人もの愛妾を持つがゆえに、常に王位を巡っての争いはが絶えない。正室が最初に王子を生んでくれるとはかぎらないからだ。
 愛妾の子が長男として王位継承の正当性を唱えれば、正室の子は血統の確かさで挑んでくる。
 そして、争いに負けた者は、殺されるか、追っ手の届かない地へと落ちのびるか、二つに一つしかない。
 そうして、命からがら〈北〉へ逃れてくる王族は決して少なくない。
 半年後に退位の時を迎えている、ダイモーン・青龍も。
 ルイやミノスも、父や祖父がそういった家の出で、自ら正当な王族の血筋だと公言しているのだ。
 だが、蘭月は違う。
 12の時に〈西〉から流れて来て、その過去を知る者は、貿易商でもあり、また、ダイモーン・青龍の右腕である参謀、守弥しかいない。
 しかし、この期におよんでも、守弥の口から、蘭月の正当性を示す言葉は出てこない。

「俺は〈北〉の生まれじゃない」
 口を開いたのは、蘭月だった。
 だが、その瞬間、誰もが思ったはずだ。
 人の目を捉えて放さぬ、その美貌。
 背を流れ落ちる髪は、太陽の金。
 瞳は深い湖の色。
 それが、王族の証でなくて何だと?
 守弥が語らずとも想像はつく。たぶん蘭月は、〈西〉の王家の血を引く者なのだ。
 ダイモーン・青龍も、そう思ったからこそ、ルイやミノスと共に、王位を継ぐにふさわしい者の1人として蘭月の名を上げた。

(冗談じゃないっ!)
 蘭月は心で毒づきながら、だが、顔にはあくまで怜悧な微笑みを浮かべたままキッパリと言い切った。
「身に余る光栄ですが、辞退いたします」
「蘭月、私の希望をかなえてはくれないか?」
「残念ながら。俺はどの王家とも無縁です」
「そうか…」
 その瞬間、ダイモーン・青龍のもくろみは、ついえたのだ。

 それは、あまりに微かな希望であったが。
 ルイ・八束は、〈北〉を本心から憂えてはいるが、戦士の宿命として敵が多すぎる。
 ミノス・栄千は、利口に立ち回る男だから、これと言った敵はいないが私欲に走りすぎる。
 どちらも、王としての器に欠けるものがある。
 だが、蘭月ならば……。
 その麗しい外見にふさわしい知性と教養を身につけ、欲にも情にも流されず、誰からも羨望の眼差しを送られている男ならば、自分の果たせなかった夢を現実のものとしてくれるかもしれない。
〈砂漠の民〉との協定を結び、兵を率いて不毛の砂漠を越え〈南〉へと攻め込むことができるのではないかと――…。
 そんな淡い期待を抱いていたのだ。

(焔よ。我が友。真の勇者。〈北〉の希望の火よ。お前は、あまりに早く逝きすぎた……!)
 ダイモーン・青龍は、心で今は亡き友に訴える。
 烏合の衆でしかなかった〈北〉の男達の心を一つにまとめ、法を整備し、秩序をもたらした英雄、焔。
(お前との誓いを、この目で見届けるためには、また10年以上待たねばならぬのか?)
 だが、人の平均寿命は、たかが45年ほど。
 元々生命力の弱い王族である自分は、あと何年生きられるだろうか?

 そんな王の嘆きを知る者は、同じ誓いを心に秘めた守弥しかいない。
(ダイモーン、俺達の時代は終わったんだ。これからは若い連中に委せればいい。お前の希望を押しつけるな)
 心で呟く守弥は、蘭月の後見人として彼を説き伏せられる立場にありながら、15年間共に苦難の道を歩んできたダイモーン・青龍の最後の望みを聞き入れようとはしなかった。
 ダイモーンにダイモーンの望みがあるように。
 蘭月には蘭月の事情がある。
 彼の背負った宿命を思えば、無理強いはできぬ。

 眼差しだけで心を伝えられるほど長の年月傍らにいた男が、小さく頭を振るのを見て、ダイモーン・青龍は諦めの吐息をついた。
(焔…、お前さえいれば、〈砂漠の民〉との協定も成り立ったかもしれないのに。この手で〈南〉を攻め落とせたかも知れないのに…!)
 だが、それは、王座を退く者の感傷でしかない。
 今さら〈もしも〉と問うても、逝った者は帰らない。
 確かに、一つの時代が終わったのだ。
 ダイモーン・青龍は静かに頷き、王としての最後の義務を果たす。

「では、蘭月の辞退によって、ここに2人の候補者を指名する。ルイ・八束。ミノス・栄千。この2人のどちらかが、半年後、新王として即位するのだ」

〈北〉の王城はその瞬間、希望と感嘆の雄叫びに包まれた。

       ◆◆◆

 男達が一夜の夢を貪る、男娼館。
 その最上階に、下卑た客達で溢れる階下の乱交部屋とは一線を画す、絨毯もランプもベッドも最上級の品を揃え、香を焚きしめた優雅な一室がある。
 湯浴みを終えて出てきたばかりの男娼が、客の前に濡れそぼった美しい裸体をさらしている。

「ところで、蘭月、お前、王族だってのは本当か?」
 だが、客の発した一言に、蘭月は上気した身体とは対照的に凍てついた視線を返した。
「過去を問わないのが〈北〉の流儀じゃなかったのか?」
「まあ、そーだが、王位継承の候補に選ばれるってことは……」
「そんなものはクソくらえだ!」
 いきなり蘭月らしくもない、お下品な言葉が飛び出して、馴染みの客はヒャッと肩をすくめた。

 無益な質問を撥ね返す、凛とした横顔。
 月明かりの中に浮かび上がる裸体は、怒りを発して青白く燃えているようにさえ見える。
 ダイモーン・青龍が、後継者にと望むはずだ。
 無頼の徒の集まりである〈北〉において、蘭月は気高さという一朝一夕では手に入れることのできない長所を持つ、希有な存在だ。
 が、それほどの男が生業としているのは、なんと男娼だったりするのだった。
 強さを一番の価値とする〈北〉の男は、オカマまがいの男娼を嘲る傾向がある。
 が、流麗な美貌に、天使を思わせる金髪。
 さらに、守弥の右腕を務めるほどの知性は、計算さえもろくにできない男達にとっては垂涎の的だった。

「お前なら、ルイやミノスより、ウケることだけは間違いないな」
「王位継承は人気投票じゃない」
「ルイは、嫌われてるヤツには、とことん嫌われてる。ミノスは狡猾すぎる。だが、お前には敵が少ない。とゆーか、嫉妬で狂いそうになるほどモテすぎる」
「では、狂い死ね。二度とお前を客には取らない」
「おっ…おいおい、それはないだろう!」
 男は顔色を変え、蘭月の足に縋りつく。
「つまらない話を口走った罰だ。さっさと帰っておくれ」
 すでに40代に入ろうという年輩の客を、蘭月は遠慮もなく足蹴にする。

 金のためには誰とでも寝る他の男娼達とは違って、蘭月は堂々と客を選んだ。
 気に入らない相手には、たとえ全財産を差し出されようが、決して首を縦には振らぬ。
 男娼らしからぬその高慢さが、蘭月の価値をさらに高めているのだ。
 今までどれだけの男が、蘭月と過ごす一夜のために大枚を払ってきたことか。
 だが、一度その腕に蘭月を抱いた者は、たとえ破産しようとも逆恨みなどはしない。
 それは、まさに、泡沫の夢のごとき、至福の夜なのだと言う。
 この厳しい〈北〉の地で、男達は、男娼の甘やかな腕の中でたまゆらの夢に溺れる。

「す…すまん! よけいなことを訊いた。二度と言わんから、そんなつれないことを言わんでくれ。老い先短い俺の、唯一の楽しみを取り上げんでくれ!」
 絨毯に擦りつけんばかりに頭を垂れ、男は自分の半分にしか満たない歳の蘭月に、ひたすら許しを請う。
「二度目は許さないよ」
「わ…わかった、わかったから…。決してお前の過去を探ったりはしない。一晩、夢を見せてもらえればそれだけでいい」
「でも、今夜はごめんだ。気分が悪い。出直しておいで」
「明日には機嫌を直してくれるか?」
「さあ〜」
「そ…そうだ、〈西〉から取り寄せた翡翠の耳飾りを持ってこよう。それとも指輪か? 絹の衣がいいか? 何でも欲しい物をやるから…!」
「さっさとお帰り」
「お前がその気になるまで、毎日足を運ぶぞ」
 男はガックリと肩を落とし、何度も振り返りながら出ていった。

 絹のローブを羽織り、蘭月はベッドに身体を横たえた。
「ダイモーンめ、よけいなことをしてくれたものだ…!」
 ついつい恨み言が口からこぼれる。
 ダイモーン・青龍が、王位継承者を発表したのは、つい昨日のこと。
 今朝から、いったい何度同じ質問を受けたことか。
「なにが過去を問わないだ国だ。どいつもこいつも、物見高い奴らばかりじゃないか」
 が、それは、蘭月の人気のほどを物語っているのだ。
 誰もが蘭月の美しさに魅了される。だからこそ、王の口から発せられた言葉の真相を確かめたくなってしまう。

 コンコンとドアを叩く音に、蘭月は顔だけ向けて言い捨てる。
「今日はもう客は取らないよ。1人になりたいから、さっさと帰っておくれ」
 だが、断るそばから不躾に開いたドアの向こうに立っていたのは、光輝だった。
「なんだ、お前か」
「今夜は、もう店じまいか?」
「なんだか疲れた」
 と、吐息をつく蘭月のそばに甘えるように擦り寄ってきた光輝は、好奇心丸出しの顔で訊いた。
「ところで、お前、王家の出だってのは本当か?」
 瞬間、蘭月の目が、ギラリとつり上がった。

「きっ…貴様までぇぇぇ――――!」

 昨夜以来の苛立ちをいっぺんに解放させ、蘭月は、思いっきり握り締めた拳を光輝の顔面に打ち込んだ。

        to be continued