第一章 第九回


「やめろっ――!」
 一際高く、あたりを圧するように響いた声。
 伊佐は、振り上げた剣を止めた。
 ナギをかばうように鋭い大刀の前に、恐れも知らず立ちはだかったのは褐色の男。
 伊佐は、ギリリと歯噛みする。
「のけっ――!」
「俺の命の恩人だぞ。のけるか」
「俺にとっては仇だ! この目を見ろ。そいつの従者に潰されたこの目を見ろっ!」
「…………」
 一瞬、誰もが言葉を失う。

 砂漠で最も美しい宝石。
 そしてまた、最強の武器と謳われていた伊佐の瞳のことを知らぬ者などいるはずもない。
 それが片方でも失われたと聞いた時、伊佐とは犬猿の仲である光輝でさえも少々残念だと思ったほどだ。
 両目が揃っていたころ、彼の弓の腕は砂漠一と恐れられていた。
 が、もはや残された右目だけでは、砂漠の彼方を見通すことはできても的を射抜くことはできない。
 砂漠は、伊佐の左目と共に、最強の弓の使い手をも失ったのだ。

「その男は〈南〉の医師だ! 実験のために何人もの〈砂漠の民〉を殺してきたヤツだ!」
 怒りに燃える伊佐の剣幕は収まらない。
 潰された左目の分。
 殺された仲間達の分。
 復讐は成し遂げられなければならない。
 だが、ルイも一歩も引かない。
「これは俺のものだ。俺に服従した以上もはや〈北〉の民だ。過去は問わない。罪人すら許されるのが〈北〉の掟だ」
「復讐を遂げるのが砂漠の掟だ!」
「俺が王になれば、俺が掟になる」
「言ってる意味がわかってるのか?」
 伊佐の口元が憎々しげに歪む。
 光輝や蘭月だけでなく、その場の誰もが息を呑んだ。
 今、ナギを渡さなければ、砂漠中を敵に回すことになるのだ。

「そのガキ、くれてやれ!」
 光輝は簡単に言い捨てる。
「その代わりルイを認めろ!」
 選ぶ道は決まっている。
 こんな得体の知れぬ〈南〉の小僧1人のために、ルイの将来を犠牲にするわけにはいかない。
〈北〉の未来を潰すわけにはいかない!
 光輝は、伊佐の大刀を奪い、自ら振り上げる。
「俺が、この場で、そいつの首を刎ねてやるっ!」
「許さんっ――!」
 だが、凛と響く支配者の声に威圧されて、光輝の手が止まる。
 生まれ落ちたその時から、上に立つことを神によって定められた者の声。
 自ら選んだ男の命に、どうして逆らうことができるだろう?
 光輝はギリリと歯軋りをして、大刀をうち捨てた。
 
 そんな一触即発の事態に、静かに歩み出たのはナギだった。
「どうぞ、私をお召し下さい」
 諦めと言うより、静かに運命を受け入れたようなナギの声が男達の激しさに水を差す。
「医者は必要だ。特に〈南〉の知識を持つ者はな」
「王よ……」
「俺は、まだ王じゃない」
「いいえ。我が君、あなた様が王でございます。〈南〉の王家は弱体の一途をたどっております。いずれ遠からず崩壊の憂き目を見ることになりましょう。その時、世界を統べるのは、あなた様でございます」
「お前は予言者か?」
「予感…と申し上げましょう。死にゆく者の見た夢でございます」
 ナギは静かに微笑んだ。

〈北〉の男達は、こんなにも必死に未来を考えている。
 享楽と欺瞞に満ちた〈南〉は、滅ぶべきなのかもしれない。
 独裁者として専横を極めた天帝ギリアンのために国が弱体化していることを知りながら、私欲に溺れた貴族達は、我が身可愛さに見て見ぬふりをし続けた。
 優しく、美しく、心清らかなあの少年王が神に召された時、王道楽土を夢見た〈南〉もまた消え去るべきなのかもしれない。
 今、自分の命と引き替えに、この男が〈北〉を統べる王になることこそまさに運命――…!
 この男の強さが、きっと世界を変えるだろう――!

「あなた様に命を捧げるなら惜しくはありません。どうぞ、そのお手にて私の首を落として下さいませ」
「勝手に捧げるな」
 憮然とルイはナギの言葉を制し、揺るがぬ視線で伊佐を見やる。
「お前にはやらん。こいつは俺のものだ。一度〈北〉の族長が認めた者はそれまでのどんな罪も許される。それが掟だ」
「本当にそれでいいんだな?」
 と、伊佐は、対抗心丸出しに問いかける。

 いつの間にか、騒ぎを聞きつけた他の族長達が集まってきていた。
 砂漠に属する族長達は、伊佐と同様、憎悪と不信に満ちた視線でルイを睨みつけている。
〈北〉の族長達もまた、ルイの言い分に頷く者と、伊佐に折れるべきではないかと囁く者に分かれている。
 その時、見物人の輪の中に身を隠していたミノスが、ニヤリと妖しくほくそ笑んだ。
 この出来事で〈砂漠の民〉は、すべてルイから離れたはずだ。
 ミノスは心の内で自分の勝利を確信していた。

 1人、遠目からこの騒動を静観していた者がいた。
 氷雨だ。
「…………」
 何を考えているのか、日干し煉瓦で築かれた城の楼閣に腰掛け、無言のまま成り行きを見守っている。
 もっとも、何も考えていないのかもしれないが……。

       ◆◆◆

 城の大広間に、200人にもおよぶ族長達が集合した。
 椅子などという体裁のいい物はない。大理石の床に皆思い思いのカッコウでしゃがんでいる。
〈北〉の長老格、前王ダイモーン・青龍の右腕であった守弥が、議長として進行係を務める。
 長老とは呼ばれていても、守弥はまだ37歳。
 十分族長を努められる力を持ちながら、2年前、自らの領地をルイと光輝に分配し、今は相談役に身を引いている。
「ルイの後見人が議長を務めるのか?」
 と、飛んでくるヤジに、だが、百戦錬磨の守弥が怯むはずもない。
「議題は単純明快。ルイ・八束と、ミノス・栄千、どちらを王に選ぶかだけだ。数を数えられればバカでもできるぞ。代わりたい者がいるなら代わってやろう」
 と、一喝されたとたん、皆、首をすくめてしまう。

 実は、100以上数えられない者が大半だったりする。
 族長に必要なのは、部族をまとめられるカリスマ性だ。
 知略は参謀委せ。金勘定は商人委せ。
 そこが〈北〉や〈砂漠の民〉が、圧倒的に〈南〉に劣る点なのだ。
 ようは、お勉強が嫌いなのだ。
 ケンカができりゃーいいんだろう!
 って、そんなお山の大将達が200人も集まっているのだから、ただですむはずはない。

「ちゃんと間違えずに勘定してやるから、ガキはガキらしく大人の言うことを聞くもんだ」
 守弥から見れば、20歳そこそこの族長達などハナタレ小僧だ。
「さっさとすませようぜ」
 と、守弥は、グルリと会場を見渡す。
「ルイ・八束を王に選ぶ者は、その場に立て」
 真っ先に光輝が立ち上がる。
 それに続いて、ルイの陣営の者が1人また1人と起立する。
 この場合、候補者2人には投票権はない。
 ただ、運命を族長達に託して静観しているしかない。
 蘭月は、守弥の後ろに控え人数を数え始める。
 3分の1ほどが意思表示をした所で、満を持したように立ち上がった者がいた。

 氷雨だ――!

「おお――っ!」
 と、会場にどよめきが広がる。
 光輝や蘭月ですら目を疑った。
 その動向一つで、他の者に影響をおよぼす男の1人。
 砂漠に最も近い男が、過去の族長会議でもことごとく光輝に対立してきた男がルイに票を投じたのだ。

「氷雨いいのか? ルイへの票だぞ」
 守弥の確認の声に、氷雨は何も語らず静かに頷く。
 それにつられたように、焦って起立する者がいる。
 常から氷雨と親密にしている族長達だ。
 陰ではミノスから賄賂をもらっていても氷雨を敵には回せない。
 今は亡き〈黒〉の長老は〈北〉で最も知略に長けた男だった。
 その長老が自らの後継者として手塩にかけて育てた男。
 語らぬ言葉の下には、知識の泉が満々と湛えられているという。
 いずれ〈南〉との戦いの日がきた時には王の右腕となり、作戦参謀を務めるだろうと目されている男。
 その男がルイを選んだ!

 だが、それでもミノス陣営は、余裕の笑みを隠さない。
 氷雨の部族は、最も砂漠に近い場所に位置しているがゆえに〈北〉の中でも交流のない部族は多い。
「頭のいいヤツが、何でしゃべらない?」
「口を利かないのはボロが出ないようにしてるだけじゃないのか?」
 噂通りの切れ者なのか、ただのバカなのか、やっぱり皆ちょっと疑ってもいるのだ。
 寡黙すぎるのも損だったりする。
 やっぱり週に一度くらいは口を開くべきだった。
 なんて思っているかどうかさえ、何も言わないから定かではない。
 やっかいなヤツだ……。

「これで全部か?」
 守弥の声が議場に響く。
 ざっと見たところ、〈北〉の票はほぼ半数。
 だが、砂漠の族長達は、誰1人として立とうとしない。
(だーかーらー、砂漠を敵に回すなって言ったんだぁ〜!)
 心で唸る光輝だが、ルイは表情一つ変えない。
 まだルイの負けが決まったわけではない。
 中には棄権する者もいる。だから、ミノスの票が開いてみないと勝敗は確定しない。

「では、ルイ・八束の票を集計する。全部で78……」
 守弥がルイの票を告げようとしたその瞬間――…、
「待て――!」
 と、議場に轟いた声があった。
「まだだ」
 そう言って、立ち上がった男を見たとたん、その場は騒然となった。
 どういうつもりだ。
 大切なこの席を乱す気か。
 もしや、そのまま立ち去るのではないかと思っていると、男はその場に留まり一言発する。

「ルイが王だ!」

 一粒残された黒曜石の瞳は、まっすぐに自らが選んだ男を見つめていた。


        to be continued