第一章 第八回


 あと半時で、族長会議が始まってしまう。
 なのに、ルイは戻らない。
「くそっ…! もうダメなのか?」
 砂丘に向かい、何ものも見逃すまいと光輝は目を凝らす。

「お前の男は、臆病風にでも吹かれたか?」
 背後から響いた不快な声。
 振り向かずとも察しはつく。
「お前にとっちゃ好都合だろ」
「俺はどっちでもかまわんさ。〈北〉の王が誰になろうと、砂漠には関係ないからな」
「話が違わないか?」
 と、ようやく光輝は振り返った。
 睨みつける先に、肩まで伸びた黒髪を風になびかせ悠々と立つ男がいる。
 ザンバラに伸びた前髪の間から、一粒の黒真珠の瞳が覗いている。
 歳は22。砂漠を仕切る男〈ハヤブサ〉の伊佐だ。

「1人の王を戴いて〈南〉に攻め込むんじゃなかったのかよ? そっちが先に持ちかけた話だろうが」
 詰め寄る光輝を小馬鹿にするように、伊佐はニヤと笑った。
「お前らが必要なのは砂漠を渡るための道案内人だ。お前らは俺達を利用する。だが、俺達にはどんな得がある?」
「お前達だって〈南〉を嫌っているはずだ」
「それでも俺達は砂漠から出ようとは思わん。お前らみたいに〈南〉に対する憧れなんざ屁ほどもない」
 そう言って、伊佐は右手で指さした。
 どこまでも茫漠と広がる砂の海を。
「見ろ!」
 と、生あるものに挑みかかる自然の審判を。
「どのみち砂漠は広がる一方だ。ほっておいてもこの世界は、俺達〈砂漠の民〉のものになる」
 その不毛な光景は、〈流血の獣〉と称される光輝さえをも、言い知れぬ不安に陥れる。

「じゃあ、てめーら、何のために〈北〉の王を決めるための族長会議に自分らも参加させろなんて言い出した?」
「わからんか、バカが」
「何ぃ〜?」
 この2人、言わずもがなだが、仲が悪い。
 どちらも強く逞しく、仲間からの信頼も厚く、その期待に応えるために邁進する力と、揺るぎない意志を持っている。
 そんな似た者同士の2人には、共に〈敬意〉という概念もなかった。
 相手の力は認めるが、一番強いのは自分でなければ許せない。
 同族嫌悪の典型である。

「……貴様ぁ〜!」
 光輝は伊佐のもくろみを察して、怒りに目をつり上げた。
「ミノスを王にする気だな? ルイを追い落として〈北〉を破滅に追い込む腹だな?」
「だったらどうする?」
 と、不敵に笑う砂漠の男。
 だが、光輝も引きはしない。
「砂漠には頼らん。〈北〉の王は〈北〉で決めるっ!」
「そしてどーする? たとえルイが王になっても、お前らだけでは砂漠を越えられんぞ」
「樹海を渡る」
 それは、〈南〉との国境沿いに広がる〈迷いの森〉のことだ。
 だが、砂漠以上に危険な場所だということは子供でも知っている。
 砂漠の空には、方角を示す太陽がある、星がある。
 だが、樹海を覆う緑の枝葉は、そのすべてを覆い隠してしまう。

「迷子になって、泣き出すのが落ちだな」
 伊佐が、フンと鼻で笑う。
「貴様ぁっ〜!」
 怒り委せに飛びかかろうとした光輝だったが、
「ケンカしてるヒマはないぞ。待ち人が来たようだ」
 との伊佐の言葉に、慌てて砂漠を振り返った。
「どこだ…? 見えねーぞ?」
「あの砂丘の向こうだ」
 光輝には見えないが、伊佐の一粒の黒真珠の瞳は、彼方の砂丘を越えてくる影を確かに認めていた。
「白馬だから砂に紛れて見えないだけだ。来る。誰かをいっしょに連れているな」
「何……?」
 近づくにつれてそれは、光輝も見知った、白き鬣白き尾のルイの愛馬の姿になった。
 その背には紛れもなく、金の髪をなびかせる褐色の肌が揺れている。

「ルイ――――!」
 一声叫んで、光輝は砂漠に向かって駆け出した。
 砂は彼の足を焼く。
 太陽は彼の髪を焦がす。
 が、彼の内に燃える想いに勝る熱さはない。

「光輝か!」
 ルイは、友人であり戦友であり恋人でもある男を見つけ、微笑んで馬を進める。
 やがて2人は、眼前にお互いを認め合う。
 ルイは悠々と馬を下り、光輝は待つのももどかしく愛しい男を抱き締める。
 本来なら、王族でもない光輝が、自らルイに抱きつくことなど許されるべきではない。
 が、再会の時、2人の想いは恋人のそれだ。
 光輝はルイを抱き締め、深く唇を重ねる。
 それは乾いた風の匂いがした。
 ルイは、不安にくれていた恋人の気持ちを想いやり、差し入れられた舌に自分のそれを強く絡め、嘗め上げ、唇を軽く噛み、また激しく吸った。
 彼らは戦士であるから、その口づけはナギのそれのような甘さも繊細さも持ちあわせてはいない。
 光輝のすべてを奪うような執拗な口づけを味わって、ルイは自分が生きて戻ってきたことを実感した。

 ルイの帰還に気づいて、他の仲間達も喜び勇んで集まって来た頃、ようやく光輝はルイから身体を離し、まだ驚きに震える唇で言う。
「帰ってこないかと思ったぞっ!」
「運がよかった。どこぞの部族の刺客に狙われたが、旅の医者に偶然助けられてな」
「医者……?」
 言いかけた光輝は、馬から降り立った、いま1人の人物の存在に気がついた。
 それほど光輝には、愛しい男の姿しか見えていなかったのだ。
 今、ルイの口から命の恩人の存在を知らされた光輝は、言葉では言い尽くせぬほど敬意に満ちた目で、その人物を見やる。
 瞬間――…。
「医者だと……?」
 と、背後で低く響く声。
 振り返り、光輝は見た。

 ゆるりと、剣を抜く伊佐の姿を。

「おい……?」
 この世で唯一の宝石と言われる黒曜石の瞳は、砂漠の夜の寒気よりさらに冷たく凍りついて、ルイの連れて来た珍客を睨みつけていた。
 ナギもまた、伊佐の姿に驚きをもって立ち尽くしていた。
 漆黒の髪、日に焼けた浅黒い肌。
 しなやかな獣を思わせる体躯。
 そして、無惨に潰された左目。
 忘れるはずがない。

 毎夜、夢に現れては呪いの言葉を吐き続けた男が、今、ナギの目の前にいる――…!

〈再生の塔〉でのあの狂気の時、ナギの調合した薬の犠牲となって息絶えた男の知り人。
 左目を潰されながらも復讐を誓ったあの男こそ、砂漠最強の戦士伊佐であった。
 その足がフワリと砂を蹴った。
 一瞬にして、伊佐の巨体は軽々と宙に舞った。

「その顔…、忘れるものかぁぁぁ――――!」

 叫びながら迫ってくる般若の形相。
(ああ……。このために私はここまでやってきたのだ)
 妙に静かな気持ちの中で、ナギは、光を弾きながら振り下ろされる美しい刃を真っ直ぐに見上げていた。


        to be continued