第一章 第六回


 ルイの厚い胸に抱かれ、情熱の吐息を体中に吹きかけられ、ナギは喘ぎ悶えた。
 が、ルイは激しくとも性急ではなく。
 傲慢ではあるが卑劣漢ではない。
 王者の自信と余裕を持って獲物が許しを請うまで、指で舌で唇でナギの水蜜桃のごとき肌を隅々まで丹念になぶり上げる。
 男の身体を知り尽くした愛撫の前に、ナギは容易に屈してしまう。
「お許し下さいませ……。どうぞ…、お情けを――…」
 しかしまた、ルイは寛大ではあるが容赦はしない。
 太陽が沈み、月が昇り、また沈むまで、一夜をかけてルイの情熱的な行為は続けられた。

 その夜、獣道を走るコヨーテは、森の奥から響く人とも思えぬ妖かしの声に呼ばれピクと耳をそば立てた。
 短く荒い息が百度も繰り返された後、泣くような長く消え入る悲鳴が夜空に流れ、星々の瞬きを揺るがせた。
 それは朝が来るまで幾度となく繰り返され、
 一度目は絶望の、
 二度目は哀愁の、
 三度目は驚嘆の、
 そして最後には歓喜の悲鳴へと変わっていった。

       ◆◆◆

 ――翌朝――…。
 ナギはルイの腕の中で目覚め、かの人の閉じられた瞼の向うに隠された二粒の銀色の宝石を想い、愛しさに震えた。
 ルイは、ほどなく眠りの岸辺より立ち帰り、その目を開く。
 鏡のごとき銀灰の瞳の中に、ナギは無頼の族長に心酔する己が姿を認め進んで服従を誓う。
「褐色の我が君。私はあなた様のもの」
 と――…。
 ルイは満足し、目覚めの口づけを交わす。
「お前は俺の国の医師となり、俺の恋人になる。俺は好きな時に好きなようにお前を奪う。〈南〉の者ほど優しくはない。覚悟はしておけ」
「ああ、やはり…、偽りを見抜いておいででしたか」
「いくら〈西〉とは交易があっても、あそこの医師が〈北〉になど足を運ぶものか」
「いかにも……」
「ここで誓え。〈南〉を捨てろ。俺を裏切るな。心に誰かいるなら今すぐ捨てろ!」
 脅しの言葉とともに、ルイはナギの細い首に指をかける。

〈北〉の地は過去を必要としない。
 たとえ〈南〉から流れてきた者でさえも受け入れる。
 盗人であろうと殺人者であろうと、誰もその罪を問いはしない。
 族長に誓いを立てた者は、その場で〈北〉の民となる。
 だが、裏切りは許されない。
 一度〈北〉を選んだものは、二度と故郷には帰れないのだ。

「大切な方がおりました」
 ナギは、心を隠さず告げる。
「恋人か?」
「いいえ。私に自由をくださったお方です。その方をお救いするために私はこの地に参りました」
「では、帰るのか?」
「もはや帰る理由がなくなりました。あの方をお救いすることはとうてい無理とわかりましたから」
「医者が患者を捨てるのか?」
 その問いは、あまりに惨い。
 ナギの頬を一筋の涙が伝う。
 それがどんなに正論であっても、〈南〉の人間は曖昧という逃げの方便を知っている。
 が、〈北〉の男は言葉など選ばぬ。
 どれほど言葉を濁しても真実には変わりはないと、辛い事実を突きつけてくる。
 この男を愛すれば、待っているのは苦しみのみと、その激しい気性が言っている。
 だが、すでに心に芽生えてしまった想いを消すことなど、どうしてできようか?

「過去は捨てました。奪って下さいませ。あなた様から受けるすべての仕打ちが愛でございます」

 そして、遠慮なくルイはナギを奪った。
 朝の光の中で――…。

       ◆◆◆

「ルイが間に合わない時は、お前が立て」
 1週間、借りの住まいとなっていたテントの中で、目覚めたばかりの蘭月に向かって、光輝はとんでもないことを言い出した。
「何ぃ〜?」
「お前の、その髪と瞳なら十分王の資格がある!」
「まだそんなバカなことを言ってるのか……」
「バカなことか? 前王ダイモーンも、お前を継承者の1人に上げたじゃないか」
「見かけにだまされるなよ」
 気怠げに蘭月は乱れた金髪を掻き上げた。
 昨夜はイライラの募った光輝に散々相手をさせられた。
 その上、こんな疲れる話は聞きたくもない。

「ミノスではダメだ! あのフヌケでは…。ルイがダメなら、お前しかいない!」
 と、光輝は執拗に声を張り上げる。
「噂じゃ〈南〉の新王は、天使の姿そのままだってーじゃないか。そんなヤツが〈北〉の軍の前に立ち塞がってみろ、それだけで皆、へへーっと土下座しちまうぜ」
「自嘲的なことを」
「俺でさえ自信はねー」
 と、光輝は口惜しさに歯噛みする。
 王家に対する彼らのコンプレックスにも似た服従心は、創生の神話に由来するものだ。

 ――遠い遠い、いにしえの昔――…。
 この世には、黒髪と黒い瞳の人間しかいなかった。
 大地は荒れ果て、河は干上がり、飢えと病魔が蔓延した。
 ある時、人間を哀れに思った天使が空より舞い降りて、不毛の大地に恵みの種を撒いてくれた。
 が、自然の掟を破り、人間に味方した天使は、罰として天に帰るための翼を失ってしまった。
 金色の髪、紺碧の瞳、透けるような白い肌。
 地上の人間とは似ても似つかぬ美しいその堕天使のために、人々は王座を明け渡し、人間の妻を妃として捧げ、豊かな都を築き上げた。

 ……やがて、長い年月が過ぎ。
 天使の血は人間のそれと混ざり合い、あらゆる髪の色、あらゆる瞳の色の人間が地に溢れたのだ――…。

 今では、純粋な黒髪と黒い瞳は少数派となってしまった。
 その筆頭である〈砂漠の民〉は、大地に生きる人間としての誇りをもって唯一天使の血を拒んだ民族と、彼らの伝承は語っている。

 ゆえに〈砂漠の民〉以外の民族は天使の姿を色濃く残す者に憧れと畏怖を抱き。
 よって、王族は力より容姿を尊ぶのだ。
 ミノス・栄千は、その最も重要な条件を満たしている。

 が、蘭月の背を覆う髪は、太陽の光を弾く見事な金髪。
 両の瞳は、深い湖のようなエメラルドグリーン。
 肌は透ける水蜜の色。
 そのすべてを、さらに際だたせる麗美な面。
 容姿だけを問題にするなら、ルイよりもミノスよりも、王にふさわしい資格を持っているのは蘭月なのだ。
 それは、図々しいほど自分の美貌を認めている彼自身が一番よく知っている。

「悪いが、厄介事はゴメンだ。俺は〈西〉から来た者だ。〈北〉を治める王は〈北〉で生まれた者でないとな」
 蘭月は、うんざりと言い捨てる。
 光輝にすら打ち明けていなかったが、蘭月はその麗しき外見通り正真正銘〈西〉の王族の血統だった。
 今は捨ててしまった名は、リード・白蘭。
 12の時、世継ぎ争いに巻き込まれ、命からがら〈北〉へと逃亡してきたのだ。
 その時、彼は5つ年下の幼い弟を亡くしている。

 ――この闘争の時代。
 王族といえど命の重みはあまりに軽い。
 天使に似た姿だけを求められ、世継ぎ争いに巻き込まれて死んでいく少年達は決して少なくはない。
 ただでさえ人の寿命は短いのに、さらに純血を守るために近親婚を繰り返した王族には、病弱で短命な者が多い。
 蘭月の弟も胸を患い、逃避行に堪えきれずに息絶えたのだ。
 そうして王座を巡る争いを目の当たりにしているだけに、亡命してきた自分を快く迎えてくれた遠い親族であるルイに、同じ辛苦を嘗めさせたくないというのが本音ではあるのだが……。
 だが、それは己の胸の内にだけ納めておけばいいこと。
 最終的に、〈北〉のことは〈北〉が決めればいい。
 今も心を〈西〉に残している自分は、しょせん異邦人にしかすぎないのだから――…。

「砂漠の連中も、お前なら納得する」
 しつこく食い下がってくる光輝だが、どれほど請われても首を縦には振れぬ。
 自分はすでに、戦いを放棄してしまった人間なのだ。
「それはわかっているが……」
「どうしてもその気にならないか〜?」
 擦り寄ってくる光輝の目は、とことん甘えの態勢に入っている。
 ただごねているだけだとわかっているから、しょうがなく引き寄せて抱き締めてやる。
「甘ったれるな、バカ者め」
 言葉はキツイが、声音は柔らかい。
 こうして、3つ歳下のこの男を甘やかすのが、いつの間にか蘭月の役目になってしまっていた。

「たぶん〈北〉の族長達の意見は、ルイとミノスに真っ二つに分かれるだろう。あれでミノスは、けっこう信望はあるんだ」
 子供に語るように言い聞かせる。
 極寒の冬を堪えるため、いざという時に力を貸してくれる近隣の部族の味方をするのは当然のことだ。
 ミノスは腕力はないが、頭はいい。
 こんな時のために、常に他の部族への援助は欠かさなかった。
「問題は、砂漠の票がどっちに流れるかだが…。ルイは、連中に恨まれ過ぎている。過去の小競り合いで、砂漠の連中は、散々煮え湯を呑まされているからな」
「ルイが守らなきゃ、誰が砂漠の攻撃から〈北〉を守ったんだ?」
「やり過ぎってこともある」
「あいつは、ちょっとケンカが好きなだけなんだ」
「だったら今さらごねるな。最初から勝算の薄い賭だってことはわかっていたはずだ」
「だからー。会議の前に、砂漠の族長達に、ルイが頭の一つも下げてくれるはずだったんだ」
「頭を下げるのがイヤで、帰ってこないってことも……」
「有り得る……」
 2人は、顔を見合わせ、うんざりと溜息をついた。

 ルイ・八束。『ありがとう』も知らないのだから『ごめんなさい』などいったいどこの言葉って感じの男だった。


        to be continued