第一章 第五回


 看病を始めて3日目の朝――…。
 柔らかな光の中。命を救うための営みを再度行うために、ナギは褐色の男に口づける。
 その時――…。
 赤子のような微かな力でそれを受けていた男の唇が、突然激しくナギの唇を吸った。
 永遠を誓った恋人のように、男の舌はナギの舌を絡め取り、むさぼるように熱く唇を押しつける。
 ナギは驚き、抗うこともできず、されるがままになっていた。
 やがて解放されたナギは、唖然と男の顔を眺めやった。
 ついに見開かれた、その双眸を――!
 険しくつり上がったそれは、朝陽を跳ね返して尊大に輝く王者の銀!

「お目覚めにて……」
 ナギは、思わず知らず身を引き、居ずまいを正す。
 銀灰の瞳が問う。
「誰だ?」
 たった一言。
 だが、目覚めたばかりの声のあまりの力強さに、ナギの胸は震える。
「私はナギと申す一介の旅の医師でございます。あなたさまは、毒の矢傷に倒れられていたもの。私が3日にかけて看病いたしました」
「医師…? 〈西〉の者か?」」
「さようでございます」
 ナギは、自分の正体を偽った。
 むろんしかたのないこと。
〈南〉は〈北〉の大敵であるから。
 貿易都市として発展してきた〈西〉は、唯一〈北〉との国交を保っているのだ。
 が、鋭く光る銀の目は、偽りを見破っていたかもしれない。

「ふん…。腕のいい医者らしいな。礼を言っておこう」
 だが、ふんぞり返る男の口からは、いっこうに礼らしき言葉は発せられない。普通、『ありがとう』とか言うもんだが、残念ながらこの男の頭にその言葉はないらしい。
 ナギは、はたと想う。
 やはり、この男は卑しからざる身であろう、と。
 その口ぶり、その態度、その眼差し。生まれながらに他人を従え、他人に命ずる、王者の輝く威光に満ちていると――…。

「あなた様は?」
 ナギは問い、褐色の男は答える。
「ルイだ」
「ルイ…?」
「意味は知らん。神話の時代の王の名らしい。ルイ・八束だ」
「ああ、やはり……」
 ナギは、両手を地につき深々と頭を下げる。
 金色の髪と、第二の名を持つ以上、王族であることは確か。
 褐色の肌を持つ族長の噂は聞いたことがある。
 勇猛果敢な〈砂漠の民〉さえ恐れる、鬼神のごとき男だと。
(この方が〈北〉の王族か……!)
 あまりの違いに、ナギは愕然とする。

 ――世襲を旨とする〈南〉ではあったが、先代の天帝ギリアンがナギの母オルガにうつつを抜かし、治世を疎かにしたことで、その血を引く王子と姫と100人にもおよぶ愛妾達は、議会と教会の総意によってすべてその地位を追われた。
 今、〈南〉の治世を継いだばかりの16歳の少年王、パブロ・天羽は天帝の30も年下の末弟に当たる。
 控え目で、勤勉で、民を愛し、国を愁い、ゆえにあえて兄である天帝に苦言を呈した彼は、王宮を追われ、2年もの間、教会に身を寄せ細々と生きていたという。
 その苦しい時代を経験したからこそ、少年王は病を押して王座に就き国のために命を懸けようとしているのだ。

(この方は、死ぬお覚悟なのだ…!)
 初めて謁見した日、ナギは悟った。

「私も2年の間、教会の施しで生きてまいりました。あなたの気持ちは少なからずわかっているつもりです。これからは国のために、あなたの知識を役立ててください」
 そう言って、5年におよぶ軟禁の日々に涙してくれた少年。
 その心のままに、美しく、聡明で、まさに絵画に描かれた天使の姿を宿す少年王は、だが、胸の病に冒されていた。
 もっても2〜3年。
 王としての激務は、さらに彼の命を縮めることになるだろう。
(このお方を1日でも多く生き長らえさせることこそ、医師として数多の命を奪ってきた自分の贖いだ)
 その時、ナギは心深く思ったのだ。

 ――そうして、ナギはこの地に来た。
 少年王の病を治す方法を捜すために。
 同じ病にかかっても、この地で死ぬ者は少ないという。
 何が違う?
〈南〉と〈北〉で、何が生死を分けているのか?
 だが、その答えは、すでに出てしまった。
〈北〉の男は、もともと生命力に満ち溢れているのだ。
 血族結婚によって弱体化しているはずの王族でさえ、この逞しさだ。
 冬は雪に覆われ、夏は熱波の地獄となる痩せ衰えたこの土地で生き抜くために、強い者だけが残ったのだ。
 なんと自然の理に見合ったことか。

「褐色の肌を持つ豪勇無双の族長のお噂は、一介の医師である私でさえ聞きおよんでおります。その方をお救いできたのは、まさに神のお導きでありましょう」
 ナギは、心からの敬服を、褐色の族長に捧げた。
 その腰の低さに、男は大いに満足し、
「ところで、腹が減ったぞ」
 と、目の前にいる今は唯一の下僕であるナギに命じた。

 ルイはナギが差し出した、わずかに残っていた干し肉とパンをあっと言う間に呑み下し、
「足りん!」
 と、さらなる要求をする。
(なっ…なんという胃袋……!)
 ナギは、唖然と心の中で呟いた。
 この男は、3日間、瀕死の状態にいたはず。
 身体は衰弱しきって、空っぽな胃は食物を受けつけないはず。
「おやめ下さい。3日の絶食の後、それ以上はお身体にさわります。今はそれだけに……」
「せっかく助かったものを、今度は飢え死にさせる気か?」
 グルリと辺りを見回したルイの視線が、草を食んでいた愛馬に突き刺さる。
(殺気――!)
 利口な馬は、とっさに10メートルも後ずさった。
 さすがに長い付き合いだ。ルイの気性をよくわかっている。
「あの野郎〜。馬など食うか」
 そう言いながら、心ではしっかり、美味そうな馬だと思っている。
 しまった、最悪な洒落になってしまった……。

「俺は気が短い。もたもたしていると、お前を食うぞ!」
 ナギの倍ほどもある太く逞しい腕が、ナギの身体を引き寄せ、乱暴に口づけた。
 ナギの魂を、心を食い尽くそうとするかのような、激しい口づけ。
 息苦しさに目眩を覚えながらも、ナギは、不思議な安堵感に満ちている自分を感じていた。
 頼れる者とてない孤独な旅の中、初めて自分を支える腕に出逢った。
 奪われ、命令されることの、得も言われぬ快感。
 長の月日幽閉され、虐げられてきたナギの身体には、支配され束縛されることが、一種の安心感のように染み着いてしまっていたのだ。
 そんなナギの心を、鋭い支配者の目は、とうに見抜いていたのかもしれない。

 言葉通り、まさにルイはナギを食らったのだ。
 まだ恋さえ知らぬ無垢な心を――…。

       ◆◆◆

 ナギは、食べ物を求めて、あたりを奔走した。
 むろん狩りなどしたこともなかったが、それでも時は恵みの季節。
 河に魚は溢れ、森は秋の実りで覆われていた。

 腹を満たしたルイは、言う。
「俺といっしょに来い。医者が少なくて困っていた。連れて行くぞ」
 それは、反論を許さぬ言葉であった。
 一瞬、服従への快感が稲妻のようにナギを貫いた。
 が、ナギは、あえて異を投じる。
「きままな旅の医師。どうか捨ておき下さいますよう」
「捨ておけ……?」
 ルイの目が猛禽の険しさに光る。
 ナギの身体を力強い腕で引き寄せ、問う。
「医師でなくとも十分楽しめそうなヤツを捨てておけだと? お前は男か女か?」
「それは……」
 ナギは恐れおののき、声はかすれ震えた。
 己自身でもわからぬものを、答えられようはずもなく、ただ哀しく頭を振るだけ。
 ルイは、怯える小鳥のごとく不安にくれる顔を、楽しんで見。
 また、強く抱き締める。
「答えられんのなら、その身体に訊いてみよう」
 そうしてナギの衣を引き裂き、彼が最も恥じる身体を露わにした。

 あまりに細い四肢。
 透ける肌は、大理石の乳白色。
 肋骨の浮き出た薄い胸を飾る二つの突起。
 何もかも、男のようでいて、男のようではない。
「何だ? 身体を見てもわからんぞ」
 と、ルイは笑い、さらに確かめるために、3日の間寝もやらず癒してくれた恩人の身体を、力にて奪った。

 強さを尊ぶ〈北〉の男は、弱者にはかくも残酷なのだ。


        to be continued