第一章 第三回


〈南〉から〈北〉へと渡るのは、生中なことではない。
 大陸の中央には不毛の砂漠が広がり、両端は険しい山脈と樹海に遮られているからだ。
 キャラバン隊と共に砂漠を越えるか。
 昼なお暗き〈迷いの森〉と呼ばれる樹海を抜けるしかない。
〈北〉と交易のある〈西〉から貿易船に乗り、樹海の中を流れる唯一の川を下るのが もっとも安全な方法だが、乗船許可を取るのは砂漠を越えるより難しい。
 たいていは、川筋を頼りに樹海を抜けて密入国することになる。
 そこは魔性の住処とも言われ、彷徨い込めば方向を見失い、生きて出ることはかなわぬと恐れられている。
 だが、薄暗い小部屋の中で育ったナギにとって、そんな樹海でさえも恐怖の対象ではなかった。

 たった一つの天窓から、外を見続けた日々。
 身体は囚われていても、心は知識の世界を飛び巡っていた。
 医学者である彼の頭の中には、今は東西南北、四つの国に分かたれた大陸の地図が、くまなく蓄えられていた。
 たとえ空が見えなくても、木々の枝振り、植物層の変化一つで、自分の居場所を知ることができた。

 決して越えられぬと言われた森を10日で抜けて、ナギは、ホッと安堵の息をついた。
 ここはすでに、蛮族の支配する〈北〉の地だ。もしも〈南〉の王家に縁の者と知れれば、命はないだろう。
 それでも、この地を見る必要があった。自分を〈再生の塔〉の闇の中より救い出してくれた若き王、パブロ・天羽のために――…。

 ふと、馬のいな鳴きを耳にして、ナギはあたりをうかがった。
 湖のほとりに、白銀の鬣、白銀の尾、白き身体の見事な牝馬が、鼻面を地面に寄せて、草を食んでいた。
 ナギは近づき、そして見た。
 白馬が食んでいたのは、実は、草むらに横たわる男の髪だった。

 肩をおおう髪は、秋の実りの稲穂の黄金。
 肌は、太陽に染め抜かれた鮮やかな褐色。
 半裸の胸に、くっきりと浮かぶ蠍の刺青。
 肩に残る矢傷は、浅黒く変容した毒の色。
 
 周囲に、男をキズつけた矢じりと、苦しまぎれに男が自分でむしり取ったのだろう衣類が、無惨に散乱している。
(それにしても……)
 と、ナギは、視線をさりげなく逸らした。
(全裸になる必要はないのに……)
 男のシンボルは、発熱による興奮状態のためか、見事に屹立し、天を突いていた。
〈北〉の男は強者揃い。なかなか立派な一物を持っていると知識として知ってはいたが、これほどとは思わなかった。

 そこはそれ、少女として育ったナギであるから、こんな場合、恥じらいは隠せない。
 ナギは、ソコを見ないように注意しながら身を屈め、男の心臓の上で鼓動に合わせて、あたかも命あるもののように身をくねらせている蠍の刺青に耳を押し当てた。
 息はゼーゼーと不規則な音を立てている。もうすでに、毒の作用が内臓にまでおよび、呼吸を困難にしているのだ。
「放置すれば、もはや半日ともつまい……」
 ナギは、男の命をそう読んだ。
「失わせるには、もったいない…」
 ナニを?
 もちろん命をだ。
 その逞しい身体。さぞや名のある戦士だろうに、こんな場所で朽ち果てるのは、あまりに不憫。

 ナギは、自分より二回りも大きな男の身体を、椎の木の根元、日の光を遮る木陰へと、やっとのことで引いていく。逃げもやらず主人を見守っていた白馬が、不安げにその後を追ってくる。
(この人ったら、寝ちゃうんだも〜ん。起こそうと思って、髪の毛ちょっと引っ張ったら抜けちゃったけど、怒られないよね。ね?)
 と、つぶらな瞳で問うているが、さすがのナギも馬語は解さない。
「安心おし、お前の主人に危害を加えやしないよ」
 ナギは馬の鼻面を優しく撫でながら、答えた。
 馬にとっては、どーでもいいことだったが。

「しかし、助けられるか……?」
 何もかもが初めての地で、自分の知識がどこまで役に立つか保証などあるはずもない。
〈北〉の男の身体など、診たことは一度としてない。
 だいたい、高熱に浮かされながら屹立しているなど考えられない。
 それでも、ナギは火をおこし、水を汲み、どこの誰とも知れぬ男を介抱し始めた。
 
 矢じりの毒は、たぶんコブラの毒を〈砂漠の民〉の特殊な方法で調合した物とみた。その毒に侵された者が助かる確率は、百に一つ。
 ナギは、腰につけた薬袋の中から二種類の薬を取り出した。
 一つは、毒消しの塗り薬。また一つは、煎じ薬。
 煎じ薬を煮出す一方で、手早く男の肩の毒を吸い出し、火にかざしたナイフの刃で傷口を焼き、膏薬を丹念に擦り込んだ。
 少々荒っぽい治療をしたところで、すでに体中麻痺している男は痛みすら感じないだろう。
 それが終わるころには、煎じ薬もちょうど頃合に煮立っていた。

 が、褐色の男の意識は、毒の見せる夢の中。
 もはや、薬を呑み込む力とてない。
 ナギは薬湯を口に含み、男に唇に押し当てると、舌先を深く差し込んで喉の奥へと流し込む。
 そうして、唇を離し、男の顔を眺めやった。

 ――ふと、心が揺れた。

 骨ばった精悍な顔。
 くっきりと鋭く引かれた眉。
 厚い唇。尊大な鼻。太い首。
 筋肉の鎧におおわれた、肢体。
 夏には、砂漠から吹きつける熱波に鍛えられ、
 冬には、骨まで凍る冷気に磨き上げられた、
 血と汗と獣の匂いを漂わせる、戦う男の見事な体躯。
(これこそ、まさに男の中の男だ……!)
 ナギは、感嘆と羨望の吐息を漏らす。

(私こそは、馬の中の馬よ〜!)
 背後から覗き込んでいる馬の呟きは、このさい無視しよう。

 少女として育てられ、少年となった今も、他人より小柄で、細く、華奢な四肢と、薄い胸を持つナギは、その見まごうことなき逞しい男の身体を前にひ弱な自分を恥じた。

 ――闘争に明け暮れる、この時代。
 男の価値は、逞しさと強さであり。
 女の価値は、母となり、多くの子を産み育てることであった。
 だが、ナギは、そのどちらでもない。
 美貌の少女であったはずが、すでに女として生きることはかなわず。
 少年であっても、男として生きることには慣れぬ。
 彼の中で、希望は、決して熟さぬ口無しの実。
 それでも、毎夜、夢に見る。
 女として、恋しい男に抱かれる夢。
 が、目覚めれば、そこにあるのは、男とは名ばかりの、か細い身体。

「こんな男に生まれていれば……」
 望んでも詮無いこととは知りつつも、虚しい呟きを漏らし、ナギは失笑した。


 ――それより3日。
 ナギは、男を介抱し続けた。
 丹念に塗り薬を取り替え、4時間おきに煎じ薬を男の口に流し込む。
 やがて、男は意識のないまま、産まれ落ちたばかりの赤子が、本能的に母の乳首を吸うように、差し込まれたナギの舌先を微かに吸うようになる。
 ナギは驚く。
 毒のために、男は考えることもかなわず、身体はどこもかしこも痺れて動かぬはずなのに。

「なんと強い生命力か……!」
ナギは、希望に呟く。
 そして、微笑み、頬を染めた。

 彼は医者であり、時に患者の命を救うために、腐死した手足を切り落とすこともある。
 それでも看護のかいもなく、失われる命もある。
 ゆえに、患者に個人的な感情を持たぬように常に心がけている。
 それが愛情であれば、なおさらのこと。
 なのに……、今、目の前に横たわる褐色の男に、ナギは微かなときめきを感じ始めていた。
 毒をも跳ね返す、その強靭な生命力に。
 眠ったままでありながら、決して衰えぬその筋肉に。
 自分の持ち得ない男の逞しさに満ちたその身体に、少年の心で、男であるならこうありたかったと、彼は憧れた。
 そしてまた、少女の心で、このような男に愛されたかったと、彼女は願った。
 男の口に煎じ薬を含ませるたびに、それは介抱のための規則正しい行為から、心魅かれる男を救いたいがための長い長い口づけに変わっていった。
 どうせ、誰も見てはいないのだから。

(やだ〜。ちゃんと見てるってばー)
 うるさい馬だ。


        to be continued