着せ替え遊びのその先に


 マンガを描いたり小説を書いたりの両天秤をやってると、時々質問を受けるんだけど。
「マンガと小説、書きわけるって大変でしょう?」
 ってね。
「う〜ん、今となってはそれほど大変じゃないです」
 なんて答えじゃ、1行で終わってしまうので、私にとってのマンガと小説の違いを、ちょっとおしゃべりしてみましょうか。

 ところで、マンガ家といっても千差万別。
 目から描く人、輪郭から描く人、髪の毛から描く人。
 下絵だって、1本線でスラスラと描ける人もいれば、紙が灰色になるまでゴチャゴチャと入れとないとダメな人もいる。
 ちなみに私は後者だけど……。
 
 絵を描くよりストーリーを作る方が好きな人。
 絵を描くのが好きでネームが苦手な人。
 昨今は、マンガより小説の挿し絵をメインに描いている人もけっこういるし、ホントに人それぞれです。
 そんな中で、小さい頃から『お絵描き』大好き少女だったってことは比較的共通点の多い要素じゃないかな。

 あるマンガ家さんは、電話をしている最中に、
「手持ちぶさたになると、なんとなく描いちゃうんだ」
 と言いながら、その時も仕事とは関係のない落書きのようなことをしてたらしく、
「仕事であれだけ描いてるのに飽きないの〜?」
 と、マジで訊き返してしまったんだけど。
 ヒマになるとついつい絵を描いちゃうとゆー、根っから描くことが好きなマンガ家さんは意外と多いみたい。

 で、その事実に驚くくらいだから、私は仕事以外にはほとんど絵を描かない派。
 他人に頼まれたとか、何かしら目的があれば別だけど、何気ない落書きのようなものはまったくと言っていいほどしない人。
 それどころか、ふと気がつくと、幼い頃から『お絵描き』さえあまりしたことがなかったような――…。

『塗り絵』は好きだったな。
 紙の着せ替え人形の服は、よく自分で描いて作ってた。
 自分で考えたリスの一家の話にこってて、大きな大木の中に作られた部屋の絵を描いたりもしていた。
 でも、マンガのような女の子の絵となると、10歳くらいまではまったく描いたことがなかった。
 これはもうハッキリと時期までわかるんだけど。
 ちょうどその頃、転校した先の小学校に『お絵描き』の得意なクラスメイトがいて、実際に目の前で描いて見せてくれたのが最初の体験だったから。
 大きな目の中に星がキラキラした女の子が気取ったポーズをとっている、今思えばありがちな絵だったんだろうけど。
 でも、その時の私の反応といえば、
「しぇぇぇぇ〜☆ マンガって手で描けるんだぁ〜!」
 だった。
 実はその時まで、マンガは何か特殊な機械でも使って描くもんだと信じ込んでいて、まさか顔の一つ一つを人間が手で描いているなんて思ってもいなかったわけ。
 もうー、アホちゃうか〜☆
 って感じですねー。

 とにかく、転校のおかげで一つ賢くなった私でしたが。
 感動したわりには『お絵描き』に傾倒することもなく、むしろ当時夢中になっていたのは『着せ替え遊び』とゆーやつ。
 と言っても、人形の服を着せ替えて遊ぶあれではなくてー。

 まず、好きなマンガのキャラクター達を色々切り抜いて、それをてきとーに組み合わせて動かしながら話を作っていくの。
 主人公の少年が宇宙人なもんで、普段は私服だけど事件がおこると宇宙服に変身する。
 で、『着せ替え遊び』なわけ。
 今でゆーところのパロディーに近い感覚かなぁ。
 誘拐あり、超能力あり、今思えば笑っちゃうような荒唐無稽な話ばかりだったけど、切り抜かれたキャラクター達は命を持ち、友達のアパートの薄暗い廊下で、舞台は地球のみならず銀河にまで広がっていった。

 そんな子供じみた遊びの日々にも、やがて終わりの時がくる。
 人生を変えた、石ノ森章太郎先生の『サイボーグ009』との出逢い。
 奇跡のようなその瞬間、私が何をしたかってゆーと、ペン軸とペン先は家にあったので、ケント紙とゆーヤツを買ってきて、いきなり見よう見まねでコマを割ってマンガを描き始めたのだ。
 記念すべき1ページ目は、ベタの背景にホワイトの星が飛んでいる宇宙空間。
 2ページ目は、核戦争で突然変異してしまった宇宙人達。
 小学校6年になったばかりの女の子が描くものか……。

 その頃に描き散らかした絵は今でも残っている。
 ほとんどが中途半端に終わってしまったマンガのコマワリページやら、それ用のキャラクター。絵物語や、妙にカッコつけた詩の一編にイラストをつけたようなものもある。
 なのに、女の子のスタイル画となると数えるほどしかない。

 そう。私にとって、マンガは『お絵描き』から始まったものではなく『着せ替え遊び』の延長だったのだ。
 描きたかったのは女の子の顔ではなく、頭の中に次から次へと湧き出してくる物語だった。

 中学の頃は演劇部で脚本を書いたりもしていた。
 その中の1本は部内での小さな発表会用に使われ、実際に部員達によって演じられた。
 都会で暮らしていた少女が迷い込んだ山の中で自分が失ってしまった魂に出逢うとゆー、中学生にしては小生意気なテーマの話だったけど、なんか悦に入って書いていた覚えがある。

 結局、方法は何でもよかったってこと。
 マンガでも、脚本でも。
『着せ替え遊び』の空想世界を形にできるなら。

 さて、そこで最初の質問に戻って……。
「マンガと小説、書きわけるって大変でしょう?」
 答えは、今となってはそれほど大変じゃないです。
 マンガであろうと小説であろうと、私にとっては物語を書く手段にすぎないから。

     ★★★

 マンガと小説の具体的な違いって何でしょう?
 マンガは絵でストーリーを表現し、小説は文章で表現するってのが一般的な感覚かな?

 これが天野悟あたりだと、もっと理屈っぽく、
「小説は文章を書くんだから言語を司る左脳の分野。マンガは絵を描くんだから右脳の作業ってことのように思えるね」
 とでも言うのでしょう。
 その上で、「だがね」と、もったいぶってつけ加えるんだろうな、あいつは〜。
「イマジネーションを生み出すってこと自体が右脳の役割とされているんだから、創造的な仕事に就いている人は多かれ少なかれ右脳派なんじゃないのかな」
 とね――…。

 少なくとも私の場合、漠然と何を書こうかな〜と思っている段階ではマンガと小説に差はないです。
 どっちにしても、仕事したり、プラプラ散歩したり、本読んだりしながら、何かが浮かぶのを待ってるだけでして。
「えー、待ってるだけ〜?」
 とか言わないでね。
 怠慢でそーしてるんじゃなくて、アイデアなんてのはけっこう偶発的なもんで、意図して得られるってわけでもないんですよ。

 それは、キャラクターだったり、印象的なシーンだったり。ドーンとこーゆーテーマでいこう!
 と思うことも稀にはあったりするけど。
「あ、これ書きたいな〜」
 ってものが浮かんだところで、ようやくどっこらしょと仕事にかかるわけです。

 まずキャラクターに肉付けをしなきゃいけないんだけど、マンガと小説の違いが出てくるのもこのあたりからかな。
 何故かとゆーと、マンガの場合は、性格とか生い立ちだけでなく、絵的にどんな顔にするかを決めて、なおかつそれが描けなきゃならないから。
 実際、この段階でイメージした顔が描けなくて挫折したマンガは、けっこうありますよ。

 私にとって作品は生もので、描きたい時が旬!
 時間がたてばたつほど腐ってしまうから、できるだけ素早く作ってしまいたいんだけど、キャラクターの顔が描けないんじゃどーにもならないってわけでー。
 思いたってから実際に作品になるまで10年を要したマンガが一作だけあります。
『卒業写真』です。
 主人公の涼子ちゃんの顔が、なかなか描けなくてね。
 時々ふと思い出してはグチャグチャ描いてみて、やっぱりピンとこないなとペンを置き。
 そんなこんなを繰り返し、やっと形になった時は、
「ああ…、これでようやく描ける……」
 と、心底ホッとしたもんだった。
 あの作品は、飽きっぽい私が発酵を重ねるという方法で描いた作品としては、唯一の成功作でしょう。

 もちろん、小説の方も自分でイラストをつけている以上、同じように絵との格闘はあるんだけど。
 全コマを絵で埋めなければいけないマンガと違って、10数枚のイラストですむ小説の方が何かと誤魔化しが利きましてー。
 たとえば、苦手な顔は小さくしてしまうとか。
 どーしても描けない場合はイラストには出さないってゆー究極の技もあったりして……。まあ、それが使えるのは一部のちょい役にかぎられるけどね。
 って、こんなことバラしていいのかー?

 そんなわけで、この過程でマンガの方の守備範囲がグンと狭まってしまうから、最近では絵的に束縛される度合いの低い小説の方へとついつい話を振ってしまい、これではイカンと思いつつもジワジワと小説の割合が増えていくとゆー危ない状況に――…。

 ――えー、逃げの話ばかりしないで、進歩的な話をば。
 キャラクターが決まると、人によっては全体的な流れをまとめるためにプロットとゆー作業をやったりするんだけど、私はそれが苦手なので、すっ飛ばしちゃいます。
 って、また逃げだよ……。
 でも、それには理由がありましてー。
 私はマンガのネームにしても小説にしても、実際の作業をしながらどんどん変更していくタイプなもんで、最初に決めたものは半分も残らないから、プロットをする意味がないんです。
 担当さんに、これこれこーゆー話ですと概要を説明して、OKが出ればすぐにも書き始めてしまいます。

 マンガなら40ページのネームを作るのに3〜4日。
 プロットをしない分、ストーリーにも未確定の部分が多くて、浮かんだシーンからどんどんコマを割っていきます。
 で、この段階ではセリフもろくに入ってなかったりする。言葉に拘っていると思考が滞ってしまうから。

 たいてい最初の7〜8ページを作った後、いきなりラストか山場のシーンに飛んで、途中のエピソードはクライマックスシーンを生かすためのものを考えて徐々に埋めていくって感じ。
 最後にページ数をあわせるためにエピソードやコマを削ったりしながら全体の構成をし直すんだけど、セリフがキチンと入るのもこの段階。
 集中力を必要とする、とぉーっても疲れる作業です。

 マンガのコマワリとゆーのは、イメージを映像化するためには非常に有効な方法だと、私は思うんだけど。
 映画やテレビドラマでは、画面自体の大きさを変えることはできないけど、マンガはそれができるから。
 印象的に見せたいコマを大きくしたり、ページをめくったところに持ってきたりと、他の媒体ではできない工夫ができるのがコマワリのあるマンガの一番の利点。
 まあ、その分、センスや技術も必要になるけど……。

 それに対して小説は、漠然としたイメージをいきなり文章に置き換えなければならないわけでー。
 最初の頃は言葉が浮かばなくてねー。3日ほどドーッと本を読んで頭の中を文章でいっぱいにすることで言語中枢を叩き起こしたりしてた時期もあるにはあるんだけど、今はもうすっかり慣れっこになってしまいました。
 マンガを描いて疲れた合間に小説を書くなんてことを、平気でやってしまえるから。

 え〜、私はローマ字入力でパソコンを打ってまして。過去に何度かカナ入力にも挑戦したんだけど、見事に失敗〜☆
 どうも、これは〈あ〉のキー、これは〈え〉のキーと文字を意識しすぎてしまって、スムーズに頭から思考が出てこなくなっちゃうみたい。
 ローマ字入力の場合、キーボード一つ一つには意味がなく、両手の一連の動作で思考を表現するので、浮かんできたシーンを文章として意識することなく打ち出すことができるんでしょう。
 と、私なりに解釈してるんだけど……。

 その上、どうやら勘で打ってるらしく、私は未だにキーの配列をキチンと把握してなかったりするんだな。
 だから何がマヌケったってー。
 ローマ字入力で日本語の文章打ってる時はブラインドタッチができるのに、英単語をアルファベットで入力しようとすると、とたんに見て探さないとできなくなっちゃう。
 ところが、我が愛すべきパソコンのメビコちゃんはキーの文字が削れてるから、見てもわからないときて、
「キャー、Kはどこぉ〜?」
 って騒ぎになってしまうのだ。

 おっと、脱線。軌道修正――…。

 最初からキチンとした文章を書こうとはせず、キーボードを叩く動きに乗せて、浮かんでくるシーンやエピソードを片っ端から打ち出していくってのが、私のやり方。
 中には、セリフだけズラズラと会話形式で並んでたり。
『公園でブランコに乗っているシーン』のように、メモっておくだけの場合もある。
 とにかく、どんな形にしろ書き留めておかないと、頭の中のイメージはどんどん消えていってしまうから。

 一番危ないのは、お風呂に入ってる時。
 リラックスしてるせいもあってか、ものすごくハマるセリフやアイデアが浮かぶんだけど。
 そーゆー場合はソッコー上がって、服を着て、パソコンに直行するのだ。もしも途中でちょっと寄り道してビールを取りにいったりしようものなら、すでに半分ほどは消えてしまうから……。
 それと、寝る前に布団の中で浮かんだアイデアもメモっておかないとダメ!
 これなら絶対忘れるはずないってほど重要なものでさえ、翌日にはキレイになくなってま〜す。
 記憶力ないんでしょうか……。

 そんなふうに頼りない頭脳を駆使しながらも、ストーリーを作っていく作業はそれなりに楽しいです。
 ただ浮かんでくるものを打ち出してるだけだし、もともとキーボードを打つこと自体がゲーム感覚だから。
 
 仕事としての辛さが実感として湧いてくるのは、全体の流れが決まって、まともに読める文章にしなきゃいけなくなってから。
 200ページの小説を書き上げるのに15日ほどとして、その半分くらいは一応真剣に文章と格闘してる……つもり。
 特に最後の4〜5日ほどは思いっきり神経を集中してまとめ上げるので、かなりキツイ〜!

 と言っても、私はもとがマンガ家のせいか、言葉に対する拘りってのがあまりないもんで、最初から小説家目指して文章を書いてきた人と比べれば、ずいぶん気楽に書いてることでしょう。
 べつに純文学目指しているわけでなし。私にとって、イラストつきのジュニア小説はマンガと同じ大衆文化だから、拘りがあるとしたら、やっぱりいかに面白い話に仕上げるかでしょう。
 展開がダラけないように、説明っぽくならないように、ノリや語呂が悪くならないように、とそれだけは心がけてます。

 このイメージを具体的に文章で表現するって過程が、マンガでゆーところの絵を描く作業にあたるんじゃないかな。
 当然、マンガと小説の一番の違いもここで。
 マンガ家と小説家の対立点もこのあたりになるのかな〜。
 中には、マンガ家は絵を描くだけだから、頭を使って文章を書くより楽だと思ってる小説家さんもいるらしいし。
 対してマンガ家は、絵を描かない人間に絵描きの苦労はわからないと思っていたりもする。
 まあ、やったことないことなんだから、当然と言えば当然だ。

 私はマンガ家サイドの苦労を知りすぎていて、たぶん一方的な意見になってしまうから、そのへんの論議は置いておくとして。
 ただ一つだけ言えるのは、絵を描く能力は文章を書くのとはまったく異質なものだってことかな。

「絵を描く作業は肉体労働だ」
 とゆーのは、マンガ家の口癖のようなものだけど。
 確かに、座り続け、手を動かし続けることには非常に体力を必要とするし、〆切が近づいた時の消耗のしかたは肉体的な疲労に近い感じはするけど。
 だからって、決して頭を使ってないわけじゃなくてー。

 それこそ髪の毛1本1本にまで意識を集中して。
 でも、デッサン狂いを修正するためには一歩引いて全体を見る客観性も必要だし。
 だけど、あまり距離を置きすぎると、感情のこもらない白けた絵になってしまうし。
 と、すべてのバランスをとりながら描くってのは、やっぱりそうそう簡単な作業じゃなくて。
 そうしている間にも頭の片隅では、あの服には何番のトーンを貼ろうとか、あのシーンの構図はどうしようとか、あれこれ考え続けているんだから。
 当然、頭もフル回転してるわけで。

 まあ、これは何かの本の受け売りなんだけど。
 人間は日常生活のほとんどの時間を言語表現をしている左脳に支配されているので、本来なら右脳を使わなければいけない作業まで左脳でやってしまうんだとか。
 つまり、絵の苦手な人ってのは、左脳を使って絵を描こうとしてるらしいんですね。
 たとえば、肖像画を描く時なんかでも、目の前のモデルを見てるんじゃなくて、
「目二つ。鼻が一つ。唇があって。耳が二つ……」
 と、一つ一つ名称を列挙しながら左脳に蓄えられた知識の中から象徴的な形を引っ張り出してきて組み立てるもんで、結局モデルとは似ても似つかない顔になってしまうと――…。

 それに対して右脳で描くとゆーのは、見たままを捉えて描くとゆーことで。
 モデルが空間の中のどんな位置に置かれているか。
 それを形作っている線と線は、どうやって交差しているか。
 影はどこについているか……etc.etc.…。
 その能力が非常に優れていると、一度見たものなら何でも描けるとゆー天才的領域にまでいくようですが……。
 私の右脳は、いいとこ並の上くらいのようで、残念ながら見ないと描けません。
 で、絵を描いてる最中には、仕事机の前に等身大の鏡が置いてあるわけです。

 そーゆー右脳の作業は、文章を考えるとか計算するとかゆー左脳の作業に比べて、確かに頭を振り絞って考えてるって感じはしないけど、集中力と緊張感は遙かに大きいです。

 文章は、どんなにグチャグチャと手書きで訂正を入れようと、その後に製版とゆー作業が入るから、キレイにお化粧直しして本屋の店頭には並んでくれるじゃない。
 でも、マンガはネームが写植に変わるくらいで、少なくとも絵の部分は自分の描いたものがそのまま載るわけで。
 失敗できないとゆー緊張感は、何度も推敲を繰り返すことのできる文章を考える作業とは比べものになりません。

 もちろん、修正液や切り貼りって手はあるけど、それはあくまで補助的な役割でしかないし。
 私の経験では、描き直した絵は、なぞった分だけ最初の絵に比べて勢いが落ちます。それでも直すのは、デッサンの狂いや、全体のバランスや、何かしら不都合があるからで。
 でも、どうせなら描き直しはしたくないから、それこそ一分一秒ペン先から目を離せないってことになるわけです。

 対して、小説の方は。
 原稿を渡してそれで終わりとゆーわけではなく、その後に活字になってきた原稿に訂正を入れる著者校正とゆー、実にめんどくさい行程があります。
 赤ペンを使う場合が多いので『赤を入れる』とも言いますが。

 パソコンを使っている場合、自分の打ち間違いはそのまま印刷に反映されてしまうし。
 ワープロソフト独自の特殊な記号や文字が変換されずに文字化けしてる場合もあるし。
 その上、出版社によって微妙に使用する文字の基準が違っていたりして。たとえば数字にしても、アラビア数字のところもあれば漢数字のところもあったりとか……。
 もちろん、気に入らない文章を直すこともありなので、何度でも推敲できる分だけ、拘り始めるとキリのない作業なんです。

 ――で。
 あくまで「私にとっては」と前置きをつけて、さらにイラストつきのジュニア向け小説で、その上パソコン使って書くのを前提とした場合。
 カラー扉のついた50ページのマンガを描き上げるのと、200ページの文庫本の小説を著者校正も含め、さらに自分でイラストも入れて書き下ろすのが、ほぼ同じくらいの労力を必要とするって感じですかね。
 これは何より結果を見れば一目瞭然。
 少女マンガを描いていた頃は、マンガ家専業で50冊のコミックスを出すのに15年以上かかったのに対して。
 同じ冊数の小説をその半分以下の年月で、それもマンガを描きながらの両刀でこなしてしまっているんだから。

 でも、これはあくまでページ数あたりこれくらいの時間がかかるとゆー比較にすぎません。
 どっちが大変かとゆーのは、まったく別問題。

 マンガ家の中にも、マジでストーリーを考えるのが苦手で、
「ネームさえできてしまえば、あとは絵だけだから楽だ」
 とハッキリ言う人もいるし。
 小説家だって、ワープロを使うより手書きの方が楽だって人もいれば、ワープロ派でノッてれば100枚くらい一晩で書いちゃうという豪快な人もいるし……。
 ホントに物書きってのは、人それぞれだから。

 私は、よく言えば同時進行であれこれやれる、悪く言えばコロコロ気が変わる『ながら族』タイプでして。
 頭の切り替えが早いとゆーか、考えないで動いてるとゆーか、一言でゆーと『要領のいいヤツ』で。
 さらに仕事のしかたも泥縄の典型なもんで、マンガ描いたり小説書いたりと色々手を出すことが苦じゃないどころか、むしろその方が飽きずにやれるんですね。

 今は、さらにサイトなんかも始めちゃったりして……。
 マンガも小説も載ってるけど、最終的な仕上げをパソコンでやる分、そのどちらとも違う面白さがあります。
『書く』でも『描く』でもなく『作る』って感じですか。

 絵一つにしても、手で塗るのと、パソコンで色つけするのではまったく感覚が違います。
 特に私の場合、マウスを左手で使っているせいもあって、右手を使わずに色が塗れるってことだけで、絵を描くこととは別な次元の作業に思えますね。
 なんとなく魔法みたいかな〜って。

 でも、白い紙からパソコンへと手段は変化していっても、結局私のルーツは遠い昔の『着せ替え遊び』にあって。
 次から次へと浮かんでくる物語を、友達と遊びながら形にしていたあの頃と同じことをやり続けているだけ。
 一刻も早く、次に浮かんでいる物語を出してしまいたいという欲求に追われて書き続けているだけ。

 でも、ホントはもっと手っ取り早い方法があったのだ。
 それは、他人に話して聞かせること。
 おままごとで遊んでいた幼稚園の昔から、小学校、中学校、高校と、その折々の友人達は、私の語る荒唐無稽な物語を聞かせられ続けていた被害者だった。

 そう。時代が時代なら、語りべにでもなるのが一番よかったのかもしれない。


                         おわり