意外と思うかもしれないけど、あさぎりは、自分の好きな物のことを語るのが、あんまり好きじゃない。 身近な人ならともかく、読者に向けて、自分の趣味をあれだこれだと押しつけるみたいな形になってしまうのがイヤなので、する場合は、できるだけ多くの人がわかる物を選んでいる。
たとえば、SF小説が好きだとは言っても、具体的な作品は、推薦したりしないようにしている。 アイザック・アシモフは、最も好きな作家の一人だし、最近では『アンドリューNDR114』がロビン・ウイリアムズ主演で映画化されたほどメジャーな作家だけど、それさえ知らない人が多い昨今、少々ひねてるあさぎりの趣味を語るのは、読み手にとって、面白くも何ともないんじゃないかと思えてしまうからだ。 実際、たまにチラっと自分の好みに話を振ってみても、たいてい反応は返ってこない。わからないんだろうな、たぶん……。
あさぎりは、物書きである以上、『あとがき』や『近況』も作品だと思っているわけで。そこに読者がわからないことや、つまらないと感じるようなことを書くのは、非常に気が引けるのだ。 だって、やっぱりお仕事だからね。
――てなわけで、自然と、本当に好きなものについては、あまり語らなくなってしまったのだけど……。 でも、ここは私的な場所だから。 仕事の場でもなく、編集部のチェックが入るわけでもなく、私が好きに遊ぶ空間だから。誰にわからなくても、私にとって価値のあることをつらつら語ろうかと思っている。
『あさぎり夕』でなく、『私』のことを――…。
★★★
幼い頃から、私の『好きな物』には、何故か苦い記憶が多い。 実は、我が家には『お小遣い』という制度がなかった。欲しい物があったら親に言ってお金をもらうシステムで。だからといって、何でもホイホイ買ってもらえると思ったら大間違い。 なにせ、親父が厳しいとゆーか…、怒りっぽい人で、つまらない娯楽を許さないところがあったから、まず、そこをクリアーするのが大変だった〜。 親父が納得する物が、いい物であり。 それ以外は、くだらないモンなのだ。
今でも記憶に残っているエピソードがある。 それは、私が、自発的に何かを欲しいと思った最初の記憶で、たぶん4〜5歳くらいの時のこと……。 玩具屋か、もしくは縁日の露天だったかな? 親父が、その日は機嫌がよかったのか、姉と私に、好きなものを買ってやると言った……のだろうと思う。 私は、玩具のお弁当箱を選んだ。たぶんプラスティックか何かの安物だったとけど、実際のお弁当箱より二回りほども小さくて、お箸がついていて、色は赤で、蓋にはお花の絵が描いてあった。 ふふん〜、私にだって、そんな物を欲しがる頃があったのだよ。
しかし、親父は、どうせ買ってやるなら、もっと高くて豪華な物をと思ったらしく、安物のお弁当箱に固執し続ける私の態度に、機嫌を悪くしたようなのだ。 豪華で高いキッチンセットをねだった姉は、すんなり買ってもらったのに、安物のお弁当箱を欲しがった私は、小言を言われた。 今思えば、他にも色々ねだればよかったのだが、あの時の私にはそのお弁当箱しか目に入らなかった。 どうしても、あの赤いお弁当箱でなければならなかった。 それがどんな安物でも、他の物では代用はできなかった。
お袋さんは、「あんたは頑固だったからね」と言う。 「一度言い出すと聞かなかったから」と……。 ようは、親父と私は、頑固な面はイヤと言うほど似ていたのに、価値観が違い過ぎたってことらしい。 でも、一番欲しい物を言っただけなのに、何でそんな物をと怒られたことは、けっこう私にとってトラウマになった。
――好きな物を語る時、 私の記憶は、それを否定されるところから始まるのだ――…。
ともあれ、そうやって強固な信念でもって手に入れた赤いお弁当箱はその後長い間、私を楽しませてくれた。 今でも写真が残っている。そのお弁当箱を手に、モクモクと食べる真似事をしている写真だが。あの空っぽのお弁当箱の中に、幼かった私は何を思い描いていたんだろう? カメラを向けられただけで、しかめっ面になってしまうほど写真嫌いだった私のアルバムの中で、その一枚は、やけに無心な顔をしている。
他に印象深い玩具は、キューピー人形だ。 10センチくらいの小さな物で、これもずいぶん長いこと大事にしていた、毛糸とかで洋服を編んで、箱の中にブロックでお部屋を作って遊んでいた覚えがある。 私は、人形で、『ままごと遊び』をするのが好きだったのだ。 何のことはない。幼い頃から、人形達を主人公にして、お話を作ってたってわけだ。 粘土で、子豚の人形を作たりもした。もちろん、ベッドや、テーブルや、家具も作る。やっぱり人形には、家が必要なのだ。
自分で言うのもなんだが、私は手先が器用だったので、粘土細工は得意だった。と、ちょっと威張ってみたりして……。 まあ、マンガ家やってるくらいで、不器用なはずはないけど。 アシスタントに行くようになってみてわかったのだが、他のマンガ描きさんに比べても、私は手早く仕事のできる方だった。機関銃のように点描を打つと言われていたりして……。
――さて、幼い頃の私は、赤い色が異常に好きだった。 特に赤い風船には思い入れがある。ウインクした顔が書いてあるヤツだ。ポッポちゃんとか名前をつけて、長い糸で繋いで、まるで犬の散歩のように、家中を連れ回していた。 だが、ポッポちゃんは、日々小さくなって、シワシワになって、10日ほどするとしぼんでしまった。当たり前だって……。 初代の赤い風船は、しぼんでしまった後も、箱に入れて大切にしまっておいた。何年かして箱を開けてみたら、ベトベトのゴムになってしまっていた。 初代というからには、2代目、3代目も、当然ある。お袋さんがどこかで見かけるたびに、もらってきてくれたのだ。もらい物の風船一つで1週間遊べる、安上がりの子供だった。
プロになってから、『赤い風船にさようなら』という作品を描いたが知ってる人は少ないだろうな。
実は、今でも風船は大好きだ。 目の前にあれば遊ぶだろう。いいトシをこいて……。 ようは、小さな物や、柔らかい物が好きなんだけど、このへんの幼児性は一生抜けないだろうな、たぶん。今まで引きずってるんだから…。 ついでに、いきなり食べ物の話に飛ぶが、白玉も好きだ。食べることもそうだが、作る過程で氷水で冷やす時の、フニャリとした手触りが、もう堪らなく好きなのだ。 焼き立てのパンや、マシュマロも好きだ。潰すのが〜!
――さて――…。 あまりに大人げないので、話をマンガのことに変えよう。
親父が頑固者だったし、お小遣いももらってなかったので、子供の頃の私は、好きなようにマンガを買うことが出来なかった。
それでも、毎月1冊だけ、決められた雑誌を購読することができた。姉は、りぼん、私は、なかよしだった。
付録雑誌は、小学○年生とかの延長線で許されていたのじゃないかと今になって思う。
それでも、マンガだけの雑誌は買ってもらえなくて、たいてい借りて読んでいた。近くに貸本屋があって、よく通った覚えがある。 記憶に残るマンガも、ほとんどは親戚や友達の家、もしくは、ピアノの先生の家で、順番を待つ間に読んでいたものだ。だから、前に誰もいないと、ちょっとがっかりした。
私の人生を変えた作品。言わずと知れた、石ノ森章太郎先生の代表作『サイボーグ009』に出逢ったのも、そこでだった。 このことについては折に触れ、『あとがき』なんかで書いているから知っている人も多いと思うけど、『サイボーグ009』を読まなければ私はマンガ家にならなかったと断言できる。 他のどの作品にも、私をマンガに向かわせる魅力はなかった。
002ことジェットが、009こと島村ジョーを助けるために宇宙空間に飛び出して、 「神よ、生まれて初めてあなたに祈ります」 と言った瞬間、002にぞっこん惚れた。 そして、かの名シーン。 002が009を抱きながら大気圏内に落ちていく時。 それまで00ナンバーで呼び合っていた二人が、お互いを名前で呼び合う。 「ジェット、無駄死にしてはだめだ」 と、ジョーが叫び、ジェットが答える。 「ジョー、君はどこに落ちたい?」 そして、炎に包まれて大気圏内に落ちていく二人――…。
これほどのロマンを、それまで見たことがなかった。 これが私の好きな世界だと思った。 闘いの中で信頼を築き上げ、命を懸けて仲間を助け、共に死ぬ瞬間に、相手の望みを訊ねる。 くう〜、カッコよすぎるぜ002。
――だから、私はマンガを描き始めた。闘う男達に魅せられて。
知っての通り、『サイボーグ009』は未完のままだ。 石ノ森先生亡き今、もはや続きを読むことは出来ない。天使編は構想自体はできあがっていたと聞いているので、残念でならない。 アイザック・アシモフの訃報を知った時も、これで2万年生きたダニール・オリバーも、アシモフと共に逝ってしまったのだと、哀しいとか辛いとかいうより、空虚な想いに囚われた。
私の尊敬するマンガ家とSF作家は、共にライフワークを未完のまま逝ってしまった――…。
ところで、『サイボーグ009』は、私の人生を変えた作品でありながらほとんど借りて読んでいたので、実はコミックスが揃っていない。 上記のシーンを含む5巻と6巻があるのは、好きな巻だったのでどうしても欲しかったのだろう。
マンガを買うためにお金はもらえなかったから、たぶん、お年玉とかで買ったのだと思う。
とにかく、そんなふうにマンガ一冊買うのにも親の許可がいるシステムだったから、マンガを描くとなったらもうコソコソやるしかない。
もっとも、親父はブン屋という職業柄、家にいないことが多かったので、隠すのにさほど苦労はしなかったが……。
ちなみに、『ブン屋』と言う呼び方は、侮蔑的な響きがあるせいか、どこの編集部でも使わせてもらえない。たいてい『新聞記者』に直されてしまう。
活字で『ブン屋』と書いたのは、たぶんこれが初めてだろう。なんとなく感慨深いな……。
新聞社の地方支社ってのは、1階が支局で、2階が支局長の住居になっている場合が多く、私は小学校3年の時まで支局の2階で暮らし、新聞記者だらけの中で育ったけど、『ブン屋』と呼ばれて怒る新聞記者にはお目にかかったことがない。
でも、中にはそれは差別用語だと怒る『ブン屋』もいるんだろうか?
どうも釈然としない……。
――話を戻そう。
マンガを描き始めた頃から、さすがに、なかよしでは物足りなくなってきた私は、お袋さんに頼み込んでマーガレットを買うようになった。もちろん、親父には内緒でだ。
マーガレットにした理由は、当時ファンだった、西谷祥子先生が『学生達の道』を連載していたからだ。
少女マンガといえば、主人公は女なのが当たり前だった時代に、『学生達の道』の主人公はアルバートという青年だった。
彼を取り巻く友人達も多彩で。特に、アルバートのよき理解者である兄貴分のモーリスが、もうメチャクチャカッコよくてさぁ〜!
……イカンイカン、興奮してしまった。
ところが、それから1年もたたないうちに、西谷先生は創刊されたばかりのセブンティーンという雑誌に移ってしまったのだ。
ガッチョォォォォ――――ン☆
マジでこれはショックだった〜。
さすがに小学生だった私には、ちょっとHなイメージのあるセブンティーンを買う勇気はなかったのだ。
そしてセブンティーンで、水野秀子先生の衝撃の名作が始まる。
『ファイアー!』だ。
今のボーイズ・ラブファンの少女達は知らないだろうが、私が記憶しているかぎり、少女マンガで初めて『ホモ』という言葉を使った作品はこの『ファイアー!』だと思う。
確か、『同性愛者』と書いて『ホモ』とルビが振ってあった。
少なくとも、私はこの時初めて『同性愛』なる言葉を知って、そうか男同士が愛し合うことを『ホモ』というのかと、ひどく感動した覚えたがある。やっぱ、変な子供だった……。
この作品もまた、主人公はアロンという少年だった。全編を貫くテーマはロック。さらに、それまでタブーだった、男女の全裸やセックスシーンが、女流マンガ家の手で描かれたという意味でも、少女マンガ史において特筆される作品だと思う。
なにせ私は、水野先生の影響で、男の裸を描くことを覚えたくらいだから……。
とにかく、あらゆる意味において、先駆的な作品であったことに間違いはない。『ファイアー!』の各所に散りばめられている男達のドラマは、なまじのボーイズ・ラブなどより鮮烈で濃密だ。
その頃の私は、マンガ家になりたいと思いはしても、まだ作品を完成させることが出来なかった。中途半端な作品を描き散らかす時期が3年ほど続いただろうか。
ついに、少女マンガに一大変革をもたらす作品が現れる。
萩尾望都先生の『11月のギムナジウム』だ。
その瞬間、少女マンガの中に、少年だけの世界が現れた。見事な存在感と透明感を同居させて。
『学生達の道』や『ファイアー!』は、主人公は男でも、男女の恋愛は重要な要素だった。だが、『11月のギムナジウム』に描かれていたのは少年達だけの何気ない日常だった。
萩尾先生は、その後も『ポーの一族』や『トーマの心臓』など、マンガ少女達を驚嘆させる作品を次々と発表するが、私は、とにかく『11月のギムナジウム』を読んだ時の感動が忘れられない。
煙草を吸っているオスカーのポーズ。
トーマの金髪に入っていたホワイト。
リンゴをかじるエーリクの何気ない仕草。
鼻の、陰の方から線を入れる描き方。
階段を上から見下ろした構図。
マンガにこんな表現方法があったのかと、目から鱗の気分に陥ったのは私だけじゃないだろう。
萩尾先生の作品に夢中になっていた時期、私は、『冬の旅』24ページを丸々模写したことがある。
トレペとかでトレースしたのではない。横に置いて見ながら、全コマ原稿用紙サイズに拡大して模写したのだ。もちろんバックも入れてペン書きで。でも、何故かインクは青インクだったけど。もしかすると印刷の色が青だったのかもしれない。
ハッキリとマンガ家になるのだと決意したのも、その頃だ。
以来、私は、マンガを完成させることが出来るようになったのだが、それまでに影響された作品のおかげか、それとも、もともと趣味が偏っていたのか…、少年が主人公の作品しか描けないという、少女マンガ家を目指す者としては非常に困った病にかかってしまったのだ。
そうして描き上げた少年同士の恋愛物を、よりにもよって、少女マンガの王道別冊マーガレットのマンガスクールに応募したのだ。怖いもの知らずだった、あの頃は……。
結果は選外。前作より上手くなっているけど、こういうテーマは少女マンガでは認められないとのことだった。
まあ、もっとなことだ。まだジュネさえも創刊されていない頃だ。少年と少年の恋愛……、何それって時代だ。
しょうがなく私は、自分の趣味で書く作品と、応募用の作品を描き分けることにした。
応募用には、女の子を主人公にした学園物を描きながら、趣味の男同士の話をその倍ほども描いていた。
ちょうどいいことに、その頃、親父が名古屋の支社に転勤になった。単身赴任で行ったきり、なんと3年間、一度も家に帰ってこなかったのだ。横着な親父だが、こっちも名古屋に遊びに行ったのは一度きりだったから、似たようなものか。
お袋さんが、名古屋と自宅を行ったり来たりしてために、私と姉は月の半分ほどを、二人だけで生活することになった。
つまり、ようやく隠さずにマンガが描けるようになったのだ。
ラッキー。天は私に味方した!
きちんと数えたことはないが、デビューするまでに50本近くの作品を描き上げたと思う。
そして、その半分が、趣味の男同士の話やSFだ。
高校の頃は、ほとんど毎月のようにマンガスクールに投稿して、佳作とか努力賞には入選していた。
さらに短大に入る頃には、アシスタントにも行くようになって、賞金とアシスタント料で、月に7〜10万ほどは稼げるようになっていた。
もっとも、短大は美術学科だったため、教材費もけっこうかかって決して余裕のある状態じゃなかったが、ほとんど親に小遣いをせびった覚えはない。
なにせ意固地な性格だったから、必要以上、親に借りを作りたくなかったのだろう。
ひたすら描いて、投稿や持ち込みを繰り返し、卒業する前にデビュー出来た時は、嬉しいよりもホッとした。
学生時代にデビューできなければ当然就職を考えなければならない。
マンガが描けなくなることが、一番怖かった。
デビューして、しばらくたった頃だったと思う。
私は自分のために、自分で稼いだお金で、初めてマンガ以外の物を買った。
水色の豚のぬいぐるみ(まだ豚だよ……)。たぶん500円くらいのヤツだ。今でもとってあるが……。
買った帰り、情けなくて泣きたくなった。
たぶん、少々は恵まれた家庭だったのに、なのに、こんな物一つ自分のために買ってやったことがなかった。
ひたすらマンガを描いていた。
それ意外に、遊ぶということを知らなかった。
学生時代の稼ぎでは、必要な物以外に費やすお金もなかった。
ペン先や紙がなければマンガは描けないけど、ぬいぐるみはなくても困らないから、本当に最低限必要な物しか買わないでいたのだとつくづく思い知った。
その時、マンガ以外のことで、最後に何かを欲しがったのはいつだったか考えてみた。
小学校の5〜6年の頃、『サンダーバード』のプラモデルだ。
なにせ手先が器用だったもんで、男の子でもないのに、プラモデルは好きだったのだ。
それが、親父に買ってもらった最後の玩具だ。
――以来、その豚のぬいぐるみを手にするまで、私は、純粋に娯楽のための物を欲しいと思ったことがなかった。
今でも、私は無駄遣いが苦手だ。
時々、少々お高いワインを呑むくらいで――…。
おわり
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